ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

小説

「愛についてのデッサン」 〜野呂邦暢作品集 覚え書き

書店の文庫新刊コーナーを眺めていて、目に入ったのが「愛についてのデッサン 野呂邦暢作品集」(ちくま文庫)でした。 野呂邦暢(のろ・くにのぶ)という作家はずいぶん昔、たぶん大学生のころから知っていました。ただし、作品は未読だったけれど。<邦暢…

われらに罪なすものを 〜「瑠璃の雫」伊岡 瞬

辛い時、苦しい時に、明日からも人としてあることに、踏みとどまらせてくれるものとは何でしょうか。例えばそれが小説なら、どんなフィクションか。 主人公に自分を投影し(ここでまず、読者を引き込む作家の力量が問われます)、次々と降りかかってくる不幸…

画鬼の子に生まれて 〜「星落ちて、なお」澤田瞳子

明治22年に没した絵師・河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)。<画鬼>と称され、今その作品群を見れば、時代を超越した鬼才であることに驚きます。 「星落ちて、なお」(澤田瞳子=さわだ・とうこ、文藝春秋)は、暁斎の娘・とよ=後の絵師・暁翠=の生涯を描…

鉄砲を軸にした男たちの叙事詩 〜「五峰の鷹」安部龍太郎

中学生のころだったか高校だったか、鉄砲伝来について教科書でこう習いました。 種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えた。 正確な文面まで記憶にありませんが、この部分だけ妙に記憶に残っているのは、子ども向け冒険譚の一節のような空気を嗅い…

逝った人びとと、酒を汲み交わす時 〜「小屋を燃す」南木佳士

生きづらさを感じるとき、ささやかな救いになる言葉があります。 <起きて半畳 寝て一畳 一日喰らって二合半> 百姓であろうと天下人であろうと、一人の人間が生きるために必要なものは等しく同じ。置かれた立場や境遇とはかかわりない。そして「生きづらさ…

コロナ来襲、孤立無援の中の現場力 〜「臨床の砦」夏川草介

長野県の、ある医療圏。作品中に実際の固有名詞は出てきませんが、おそらく松本市を中心とした圏域において、新型コロナと戦う最前線の医師たちの姿を描いたのが「臨床の砦」(夏川草介、小学館)です。 医療崩壊、病床使用率などの言葉はこれまでよく耳にし…

ほろ苦くも、味わい深く 〜「俺と師匠とブルーボーイとストリッパー」桜木紫乃

沁みるなあ。 感動した、と表すのはどこか違う。目の前に新しい世界が拓けたとか、魂が揺さぶられたなど、そんな大げさではないのです。読んで涙することもない。ただ、沁みるなあ。 例えて言えば、大人には大人の癒され方があって、真夜中に一人で飲む酒が…

わたしの人生は誤りだったのか 〜「浮世の画家」カズオ・イシグロ

敗戦によって根底から社会の価値観が覆った1948年ー50年の日本を舞台に、ある画家の心の揺らぎを、一人称の<わたし>の世界として描いたのが「浮世の画家」(カズオ・イシグロ、飛田茂雄=訳、ハヤカワepi文庫)です。 戦時中に至るまでの<わたし>は著名…

ハードボイルドへのオマージュ 〜「ピットフォール」堂場瞬一

舞台は1959年、60年あまり過去のニューヨーク。戦後の繁栄を誇る大都会には、根強い人種差別や、不用意に踏み込めば身に危険が及ぶエリアがあちこちにあります。都会の表と裏を渡り歩いて殺人鬼を追う主人公・ジョーは、元ニューヨーク市警の刑事で、独り者…

<僕>と<世界>の息詰まる関係 〜「掏摸」中村文則

見ているけど見えていない、聞こえているけれど、聴いていない。つまり、いつの間にか「ぼー」と放心しているとき、突然肩をたたかれたら、ぎくりと条件反射します。 普段は周囲に張り巡らせている五感のセンサーが麻痺していて、いきなり何かに自分が鷲掴み…

だれにも届かない声 〜「52ヘルツのクジラたち」町田そのこ

<52ヘルツのクジラ>とは何か。普通のクジラの鳴き声は10ー39ヘルツの周波数。ところが52ヘルツで鳴くクジラがいて、世界で一番孤独だと言われているそうです。仲間のクジラに、その声は高すぎて聞こえないから。 2021年本屋大賞の第1位になった「52ヘルツ…

涙腺狙い打ち ファンタジーの魅力 〜「かがみの孤城」辻村深月

ファンタジーであり、ミステリーであり、そして、読書の時間を理屈抜きに楽しませてくれる小説です。「かがみの孤城」(辻村深月、ポプラ社)は、2018年の本屋大賞受賞作。 中学に進学したばかりの<こころ>は、名前の通り繊細な心を持つ、どこにでもいる女…

危ないですから黄色い線まで.... 〜「JR上野駅公園口」柳美里

「JR上野駅公園口」(柳美里=ゆう・みり=、河出文庫)は、2020年に全米図書賞を受賞したことで、日本でも多くの人が手に取った1冊です。わたしもその一人で、柳美里さんの作品は初読でした。 いい作品が必ずしも売れると限らない以上、どんな経緯を経るに…

切なくも胸にせまる.. まあ、確かに 〜「劇場」又吉直樹

又吉直樹さんの芥川賞受賞作「火花」には、次も読んでみようかと思わせる何かがありました。そして手に取ったのが「劇場」(新潮社)です。 帯のキャッチには「切なくも胸に迫る恋愛小説」。なるほど、ストレートにそのままの作品です。主人公の<僕>は、ア…

心の迷宮 血は流れて雪はやまない 〜「冷たい校舎の時は止まる」辻村深月

わたしはお化けとか超常現象の類を、これっぽっちも信じません。確かに時には面白いけれど、フィクションの世界。と、分かっているはずなのに、実は怖がりなのです。頭で考えていることに反して、体が反応してしまう。 「冷たい校舎の時は止まる」(辻村深月…

自然を知らないわたしたち 〜「邂逅の森」熊谷達也

もののけ姫の世界が蘇った ブログを通じた知人、レノンさんが「邂逅の森」(かいこうのもり 熊谷達也、文藝春秋)について記した文章を読み、思わず「なるほど」と膝を打つ思いでした。 もののけ姫かあ。この作品の世界観をこんなふうに分かりやすく言い切る…

推しは<人>になった あたしは? 〜「推し、燃ゆ」宇佐見りん

もともと、二十歳前後の、しかも女性が書いたアイドル追っかけ小説に、わたしがついていけるはずもない。第164回芥川賞を獲得した「推し、燃ゆ」(宇佐見りん、河出書房新社)です。 同年代のみなさんのために少し事前解説すれば、「推(お)し」は動詞では…

風前のともしび 燃え盛る 〜「のぼうの城」和田 竜

歴史小説は、信長や秀吉を代表とする戦国の覇者たち、あるいは彼らを支えた人物に焦点を当てるのが本流です。おなじみ、NHKの大河ドラマの原作になるような作品群。でも、普通は表に出てこない歴史の支流にも、魅力的な人物はたくさんいたはずです。 「のぼ…

朝がきて、働いて、コップ酒で1日が終わる 〜「苦役列車」西村賢太

草食ではなくて肉食。若い男の体臭が、むんむん臭ってくる小説です。ただしライオンのような猛々しさ、かっこよさは微塵もありません。 汗、酒、煙草、そして浅ましさや愚かさ。冷酷になれないから、犯罪者にもなれない平凡さ。しょせん俺とうい人間はこうな…

ヒマワリの悲しい秘密 〜「盤上の向日葵」柚月裕子

前半を読んだ段階では、「盤上の向日葵」(柚月裕子、中央公論新社)をブログに書くかどうか迷いました。わたしの中でプラスよりもマイナスが上回る作品については、書かないことにしています。 何度か中断しながら読み続けるうち、後半から面白くなって、最…

涙が出るほど哀くて、笑ってしまう 〜「火花」又吉直樹

お笑い芸への愛情と切なさが、ひしひしと伝わってきました。愛情が深ければ苦悩も深く、文章からは文学への真っ直ぐな思いが漂ってきます。う〜ん、これは心に残る秀作ですね。 「火花」(又吉直樹、文藝春秋)を今ごろ読んで、褒め言葉を並べているのだから…

きっと彼女を探し出す 〜「ノーマンズランド」誉田哲也

「ノーマンズランド」(誉田哲也、光文社文庫)を読みました...と書くと、すかさず「おいおい、前回こんなの4冊買いましたと、なんだかんだ言ってたのと違う本じゃないか!」と突っ込まれそうですが、はい、違うのです。申し訳ありません。まあ、寂れたブロ…

わたしは果てない夢をみる 〜「三度目の恋」川上弘美

「むかしむかし....」で始まる、おばあちゃんの昔話。語りの前置きとして、各地の方言に形を変えながら伝わってきた、あるフレーズがあります。 ありしか なかりしか知らねども あったこととして聞かねばならぬぞよ これ、直裁で素朴で、かつ<物語>という…

彼は散った 〜「歳月」司馬遼太郎

ファンと言うほどではないけれど、気づいてみれば司馬遼太郎さんの歴史小説を結構読んできました。戦国時代、幕末から明治維新など、激動期の人間像を描き出して歴史の奥行を俯瞰させてくれる小説群は抜群に面白い。 でも、この<面白い>と言う言葉はけっこ…

ドストエフスキー 〜作家つれづれ・その1

異常気象で雪が積もらなかった昨年と打って変わり、いつもの冬がやってきました。朝、目が覚めて見れば一面の銀世界。まるで世界をリセットしたよう。庭のサクラも雪をまとって、枝垂れ桜みたいな風情になっていました。 (今朝の庭) わたしの住む地では、基…

不可思議な シュールな 〜「ワカタケル」池澤夏樹

やはりこれは、歴史小説と呼ぶべきなのでしょうか。「ワカタケル」(池澤夏樹、日本経済新聞出版)は、5世紀後半の古墳時代を舞台に、ワカタケル=雄略天皇=を描いた作品です。 第21代天皇・雄略は、古墳から出土した鉄剣に彫られた銘に名が確認され、考古…

彼は立ち止まらない 〜「久遠」など刑事・鳴沢了シリーズ 堂場瞬一

最近<リーダビリティ readability>という言葉を知りました。「先へ先へと読ませる力」という意味でしょうか。あの作家はリーダビリティが高い、といった使い方をするようです。 いい小説の条件を考えるなら、結局は「面白いか否か」というシンプルな出発点…

魔王・信長か 繊細な天才・光秀か 〜「国盗り物語」司馬遼太郎

小学生の男の子は、わりと様々な<○○少年>時代を過ごすものです。わたしに関して言えば、夏休みの<昆虫採集少年>だったり、放課後の<野球少年>だったり。少し珍しいと思うのは、一時期<発掘少年>だったことでしょうか。 自転車で10数分で行ける丘陵地…

なぜ信長は光秀に討たれたか 〜「信長の原理」垣根涼介

少年は蟻を見ていた。 暑い夏の午後、しばしば飽くこともなく足元の蟻の行列を見続けていた。 周囲から煙たがられ、母からも疎まれるこの少年は、吉法師(きっぽうし・織田信長の幼名)。「信長の原理」(垣根涼介、角川文庫)は、蟻を見つめるシーンから始…

古い本に味わいあり 〜「白描」ほか 石川淳選集第2巻

同級生が先日、フェイスブックでこんなコメントをわたしによこしました。 「ほぼ現役を終えた年代である今は、お互いにやり残したことを潰していくときにしたい」 元公務員の彼は、少子高齢化でさびれ続ける地域を活性化しようと、地元で活動する若い演劇人…