ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

逝った人びとと、酒を汲み交わす時 〜「小屋を燃す」南木佳士

 生きづらさを感じるとき、ささやかな救いになる言葉があります。

 <起きて半畳 寝て一畳 一日喰らって二合半>

 百姓であろうと天下人であろうと、一人の人間が生きるために必要なものは等しく同じ。置かれた立場や境遇とはかかわりない。そして「生きづらさ」もまた、それぞれがそれぞれに抱えているのだ、と思えば少し救われる。

 人間というものの小ささを言い、一人ひとりのかけがえなさを背後に滲ませています。ちなみに上の慣用句、<一日喰らって>の部分は、<天下取っても>などいくつかのパターンがあります。

 「小屋を燃(も)す」(南木佳士、文春文庫)を読みながら、わたしはしばし中空を見上げ、深く呼吸しました。

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 主人公であり、作者でもある南木さんは医師。たくさんのがん患者を看取り、家族に接し、その結果自らの心の平衡を保つことが難しくなり、現実から逃れるために1981年、難民医療日本チームの一員としてタイ・カンボジア国境に赴きました。

 そのあたりの経緯は、私小説風の過去の著作に詳しいのですが、この作品にもさらりと触れてあります。戦争という極限の現実に身を置いて帰国しても、医師である前に人間としての土台の揺らぎを克服することはできませんでした。

 心を病み、死と対面する臨床の場に戻ることができなかった過去。

 「小屋を燃す」は、総合病院の勤務医としてなんとか定年を迎えた後の物語です。

 一人称小説でありながら、「私」という主語を徹底して省いた直接記述で、読者を「私」に限りなく同化させます。その分だけ、甲さん、乙さんと三人称で呼ばれる友人たちや、「おまえ」ーと敵意を持って「私」を名指す他者の存在が、くっきり輪郭を持ちます。

 4つの短編連作で構成された小説集。信州の田舎の住む、現役を引退した男たちが、切り出した木と廃材で山に掘っ立て小屋を建て、集って酒を飲み、たあいのない話をして過ごすだけの、淡々とした時間の流れ。「私」の遠い過去が、モザイクのように交錯します。

 数年後、朽ち始めた小屋を壊さざるを得なくなったときには、すでに仲間の幾人かは他界していました。雪降る中、廃材で建てた小屋を壊して積み上げた廃・廃材を燃やしながら、男たちは火に鍋をかけてうどんを作ります。

 味見をするために、きのこを足すために、炎の周りには逝ったはずの仲間たちも集まってきて....。

 貧しかろうと、天下人だろうと、もしかすると死んでいようと、寂しさは同じだよ。現実と幻想が渾然一体になったラストシーンに、そんな気がして、また深く息をついてしまったのは、さて、

 わたしも火を囲む彼らの年代に近くなったからでしょうか。