ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

小説

<小説>というカテゴリーに説明不要だと思いますが、日本、海外の作家によるフィクションです。

生きて、書いて、愛した人 〜「放浪記」林芙美子

一気に通読するだけが、「放浪記」(林芙美子、新潮文庫)の読み方ではないと思います。わたしは併読本として、気が向いたときに少しずつ読み進み、気づけば2カ月余り。ページを開くといつも、林芙美子という魅力的な女性に再会し、大正時代の日本社会の雑踏…

あの人はわたしのすべてだった 〜「冷静と情熱のあいだ」江國香織

純粋、切ない、優しい、強い。弱い、かたくな、そして残酷。 どれも、「冷静と情熱のあいだ」(江國香織、角川文庫)の主人公<アオイ>について考えたとき、思い浮かんだ言葉です。そして全部、だれしもが持つ人の本性かもしれません。 単行本帯のキャッチ…

壮絶な記録文学 300余の人柱 〜「高熱隧道」吉村 昭

壮絶な記録文学です。北アルプスの黒部峡谷は、峻厳な地形や豪雪が人の侵入を拒み続けてきた秘境。その峡谷に水力発電のダムを建設するため、人や資材を運ぶ隧道(トンネル)の掘削が始まりました。 ところが地下火山の影響で、掘り進むと岩盤温度は160度を…

届かない恋心 切ない大人の童話 〜「やさしい訴え」小川洋子

「やさしい訴え」(小川洋子、文春文庫)を読みながら、読み終えて、しばし考えました。この小説について、なにか書くべきなのか...。以前、このブログである恋愛小説を取り上げたとき、以下の趣旨のことを書きました。 いい恋愛小説はただ共感できるか否か…

極限状態、冷徹な人間観察 〜「野火」大岡昇平

ウクライナ、パレスチナのガザ地区など、世界のあちこちで戦争が絶えません。有史以来、国と国は武器を執って争い、21世紀になっても変わることがない。 幸い、日本はしばらく戦争に直面していないけれど、「戦後」という言葉が過去になったわけではありませ…

百年を経て妖になった面々 〜「つくもがみ貸します」畠中恵

私たちが日常に使う道具類、百年の年月を経ると魂が宿って妖(あやかし)になるという。これが付喪神(つくもがみ)です。 茶碗なんてすぐ割れるし、木製品だってガタがくる。たいていの道具、器物はとても百年持ちません。しかし一方で、精巧な細工を施した…

長い逃亡劇の果て 彼女が見つけたもの 〜「ヒロイン」桜木紫乃

「ヒロイン」(桜木紫乃、毎日新聞出版)は、23歳から17年間にわたる逃亡の物語です。華やかなタイトルと裏腹に、殺人罪の指名手配写真を気にしながら、次々と別人になりすまして世間を欺く長い旅。そこにも男との出会いと死があり、最後にようやく、ヒロイ…

心を白紙に、物語に身を任せて 〜「ナミヤ雑貨店の奇蹟」東野圭吾

日々の暮らしで、つい肩に力が入り、いつの間にか疲れているとき、心の重さを解き放ってくれるのもフィクションが持つ力の一つです。 「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(東野圭吾、角川文庫)を読み終えて、わたしは久しぶり清々しい気持ちになりました。心がぎすぎす…

この迷宮におそらく解答はない 〜「箱男」安部公房

6月中旬にして今日は真夏日の予報。朝から冷房の効いた喫茶店に逃避し、モーニングセットを食べ、いまノートPCを開いてこれを書き始めました。 このところ、読了した本はそれなりにあっても、ブログに書くのが億劫になっています。理由は単純で、油彩で風景…

澄んだ水脈に 心ひたすような 〜「月まで三キロ」伊与原新

気づいたら、泣いていましたーと、文庫本の帯にあったけれど、なるほど泣くかどうかは別にして、いい短編集だと思いました。「月まで三キロ」(伊与原新、新潮文庫)です。 表題作を含め7篇が収めてあり、どれも冷たい渓流の流れを掬って飲むよう。飲んで初…

日常を破壊する現代の童話 〜「砂の女」安部公房

「白雪姫」をはじめ、童話や昔話の原典をたどると実は残酷な話が多い....というのは、けっこう知られていると思います。 では、残酷な童話を現代小説として創作すればこうなるのではないか。 安部公房の「砂の女」(新潮文庫)を読んで、最初に思ったのがそ…

SF小説の古典 名作なんだけど... 〜「華氏451度」レイ・ブラッドベリ

「華氏451度」(レイ・ブラッドベリ、ハヤカワ文庫)は、1953年に書かれたディストピア(=ユートピアの反対語)小説の名作。アメリカのSFの大家、レイ・ブラッドベリの代表作といえばこれか、「火星年代記」でしょう。 書物を読むこと、所持することを禁止…

哀れ 恋心 自堕落 そして生きること 〜「山の音」川端康成

旧友を酒に誘い、夕方から早めに家を出ました。会社を離れて田舎に引っ込むと、街中に行く機会があまりありません。約束の時間まで、久しぶりに駅前の大型書店とBook・offをはしごして、荷物にならないよう1冊だけ買い、<スタバ読書>で時間を潰そうという…

美しすぎるものを焼き尽くせ 〜「金閣寺」三島由紀夫

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。 三島由紀夫の「金閣寺」はさらりと、物語の骨格を示して始まります。1956年に雑誌連載後、単行本として刊行されたこの作品は、三島に対して懐疑的だった一部の批評家たちを黙らせ、海外でも翻訳されました。 …

繰り返し読む本、読まない本

本好きは、常に新しい出会いを求めています。書店で、図書館で、目立つよう平積みされた本をチェックし、次は林立した書架にぎっしり並ぶ背表紙を眺めてうろうろ。事前の情報収集で、読みたい本が決まっていれば、真っ直ぐお目当ての1冊に向かうこともあるで…

命をかけて、人と自然が交わるとき 〜「ともぐい」河﨑秋子

読み始めから、歯切れのいい文章のテンポに引き込まれました。北海道の厳しい自然と、街に馴染めず、独り猟師として生きる男の息遣いが立ち昇ってきます。 「ともぐい」(河﨑秋子、新潮社)は、2023年下半期の直木賞受賞作。主な舞台は明治後半の北海道、人…

ぼくは二十歳だった。それがひとの... 〜ポール・二ザン「アデン アラビア」のことなど

昨夜、麦のお湯割りをちびちびやりながら、武者小路実篤について書きました。小説「愛と死」の読後感を綴ったのですが、投稿を公開してから、やおら立ち上がり、踏み台に乗ってごそごそ。確かこのあたりにあったはず...と、書架の一番上の奥からポール・二ザ…

純愛小説の古典 〜「愛と死」武者小路実篤

わたしが子どものころ住んでいたぼろ家の、居間兼座敷に1枚の色紙が掛けてありました。本物ではなく、安っぽい複製品です。子どもながらにも達筆とは思えない毛筆で、こう書かれていました。 「この道より我を生かす道なし この道を歩く 武者小路実篤」 色紙…

弥生時代は歴史小説たり得るか 〜「鬼道の女王 卑弥呼」黒岩重吾

ややタイミングが遅れましたが、クリスマスイブ。今年もあちこちの家でケーキにナイフが入っただろうなあ、そして不運な何百人は、高島屋の崩れたケーキの画像をSNSに投稿。あれは一流デパートとして、事後対応も含めひどい。 同じころ、わたしはビールを飲…

アルジェの太陽と4発の銃声 〜「異邦人」アルベール・カミュ

1940年代から50年代のフランスを代表する作家の一人に、アルベール・カミュがいます。無名の文学青年を、一躍時代の寵児にしたデビュー作が、1942年に出版された「異邦人」(新潮文庫)でした。 80年前の小説ですから、すでに<古典>の仲間入りか。主人公の…

戦国を生き抜いて小気味よく 〜「真田太平記」池波正太郎

戦国時代、信州(長野県)にあった真田家は、上杉、武田、北条という強国に囲まれていました。その後も織田、徳川が勢力を拡大する中、真田は領国を必死に守ろうとした小大名にすぎません。 その真田家が、なぜ今もよく知られているのか。徳川家康が豊臣家を…

凪の日 夕陽の日本海と北アルプス 〜池波正太郎、カミュ

まだ初冬とはいえ、晴れた日は北陸、東北の日本海側に暮らす人たちにとってかけがえのない1日です。 寒気とともにシベリアや中国から流れてくる冷たい冬雲は、北アルプスなど本州の山々にぶつかります。雲は、日本海側に雪や雨を降らせて消え失せる。そして…

名作の続編 壮大な叙事詩再び 〜「2010年宇宙の旅」アーサー・C・クラーク

SF史上の名作の一つに、1968年公開の「2001年宇宙の旅」があります。映画(スタンリー・キューブリック脚本・監督)が公開され、同年少し遅れて小説(アーサー・C・クラーク)が刊行されました。 同名の映画と小説がある場合、最初に原作の小説があるか、ま…

女の一念を込めた手裏剣が 〜「ないしょ ないしょ」池波正太郎

池波正太郎の人気シリーズ「剣客商売」には、2作の番外編があります。1作はシリーズの主役・秋山小兵衛の若きころを描いた「黒白(こくびゃく)」(新潮文庫)で、小兵衛の死闘と人生修行が描かれています。 もう1作が「ないしょ ないしょ」。わたしは未読で…

辿りつけば 哀しく清々しい愛 〜「存在のすべてを」塩田武士

ぐいぐい引き込まれていく、ページをめくるのが楽しい。それは小説が持つ大きな力です。「存在のすべてを」(塩田武士、朝日出版社)は、久しぶりに読書の醍醐味を与えてくれました。 30年前の未解決誘拐事件。銀座の画廊に長く秘蔵される、無名画家による類…

道化と仮面 それぞれの生と死 〜「人間失格」「仮面の告白」

プロローグ(...わたしの中の空想図・交友関係) 親しくなりたいと思わない。しばしば目を背けたくなる。けれど、なぜか何度も一緒に酒を飲んでしまう。ダザイ・オサム君はそんな小説家でした。わたしが若いころの話です。 青森の裕福な旧家に生まれたダザイ…

太宰治と三島由紀夫 〜作家つれづれ・その7

少し前から、書店に行くと気になっていたのが、角川文庫の近代文学に使われているカバーです。こんな具合。 みなさま、自分のイメージとどれくらいマッチするでしょうか? 文豪ストレイドックスコラボカバーをさらに見る うーん、個人的に太宰はじめみんな垢…

おもちさんとユニクロの細いズボン 〜「にぎやかな落日」朝倉かすみ

朝から気持ちのいい秋晴れ。外に見える木々が陽射しを浴びて輝き、紅葉と冬に向かって急ぎ始めた気配が伝わってきます。部屋の窓際にあるキンモクセイは、例年より1週間ほど遅く満開になり、目覚めの深煎りコーヒーと香りが混ざり合いました。 「にぎやかな…

老人はライオンの夢を見ていた 〜「老人と海」E・ヘミングウェイ

世に中にはおびただしい本があって、どんな小説が好きかは人によって異なります。わたしが「この作品は素晴らしい」と思っても、ついさっきショッピングモールですれ違ったたくさんの人たちは、みんな自分だけのお気に入りを持っています。 若い女性ならハッ…

激辛でも濃厚でもなく 静かに沁みる 〜「灯台からの響き」宮本輝

読んでいるうちに、何かをしたくなる本があります。そわそわと、椅子から立ち上がりそうになってしまい。「灯台からの響き」(宮本輝、集英社文庫)も、そんな1冊でした。 父の味を守ってきた中華そば屋の62歳の男が、黙々と仕込みをするシーンを読むうち、…