少し前から、書店に行くと気になっていたのが、角川文庫の近代文学に使われているカバーです。こんな具合。
みなさま、自分のイメージとどれくらいマッチするでしょうか?
うーん、個人的に太宰はじめみんな垢抜けし過ぎていて、「みだれ髪」なんかは漆黒の長い髪のイメージなんだけど..。
調べてみると「文豪ストレイドッグス」という漫画と、角川文庫のコラボ企画なんですね。どのキャラも、漫画に登場する文豪たちのようです。なるほどそういう戦略かあ〜。
さて、数ある太宰治の小説から1作だけ選べと言われたら、わたしは迷うことなく「津軽」と答えます。
東京で女性たちとのスキャンダルや作家としての埃にまみれた太宰が、古里の津軽を旅し、自分の子守りだった老婆のタケと出会う、紀行文(ルポルタージュ)のような作品。小説家として清濁併せ持つ太宰の、澄んだ感性だけが凝縮された佳品だと思います。
最近しばしば、10代から20代にかけて読んだ小説を再読したくなります。どれにするか昔の本をいろいろ手に取ることになるわけですが、今回残ったのは太宰の「津軽」、ではなく「人間失格」でした。ん、なに?。
「人間失格」は、わたしが一番好まない太宰作品です。これならまだ「斜陽」の方がいい。でも「人間失格」を選んだ理由は、わりとたやすく自己分析できました。
かつて読みながら何度も、激しい嫌悪感とひとすじの共感が同居した小説を、今の自分はどう読むのか。38歳で山崎富栄と入水自殺した太宰より、自分は今やずいぶん長生きしたし、ちょっと再読してみようじゃないか。
もし違う感じ方、あの嫌悪感も余裕を持って眺めることができたなら、そこに自分の歳月の積み重ねを実感できる。ざっくり記せば、そんな下心があったのでした。
そして再読はどうだったか...。
少々長くなりそうなので、ここでは書きません。予想外だったのは、読み進むうちに、三島由紀夫の「仮面の告白」を読みたくなったことです。
「人間失格」は、太宰が自死の直前、最後に書き上げた遺作のような自伝的小説。三島が同じ年に書き始めたのが「仮面の告白」でした。これまた生まれた日からの歩みを描いた特異な作品。もちろん二人に交友や深い接点はなく、テーマも天と地ほどかけ離れています。
三島は後に太宰を、「小説家の休暇」というエッセイで極めて痛快に否定(というか、けんもほろろに冷笑)しています。でもねえ、この二人、深いところでどこか1本繋がっている。
少なくとも、わたしはそう感じるのです。だから次は「仮面の告白」を再読したくなった。そもそも肯定否定のどちらにしろ、なにかが三島の心に刺さらなかったら、エッセイでわざわざ太宰に言及する必要もないのだから。
稿を改め、このブログで「人間失格」と「仮面の告白」について書いてみたいと思います。しかし、どうにもニッチな内容になりそうなので、興味がない方は次回を遠慮なくスルーしてください。あるいは、テーマが重くて、宣言だけして書けないかもしれません^^;。
まずは「仮面の告白」を再読しないとね。
実は梅雨のころから、平野啓一郎さんの新刊「三島由紀夫論」が机の一角に積読状態で居座り、これがまた分厚い大作だけに手をつけかねています。その第一部が「『仮面の告白』論」なので、ちょうどいい。再読は、平野さんの三島論に手を付ける前の準備運動にもなって、一石二鳥かもしれない。
毎日目にする北アルプスの山々は麓へと、日々紅葉が下りてきています。氷で飲んでいた毎晩の麦焼酎も、先週あたりからお湯割りに変えました。
灯下親しむ2023年秋。