はじめて読んだ宮本輝さんの小説が何だったか、もう記憶が定かでありません。デビュー作で太宰治賞を取った「泥の河」だったか、芥川賞の「蛍川」だったか。前後して村上春樹、村上龍さんがデビューした時期で、当時はこの2人に比べると地味な印象でした。
ところが10年後、わたしの心に宮本輝という作家は鮮明に焼き付けられました。競馬の世界を舞台にして、馬と人の姿を切なく描き出した「優駿」(吉川英治文学賞)によってでした。「面白さ」はすぐに忘れて消えていきますが、一度心に刺さった「痛み」は残り続けます。
さて、それが誰であれ老境に入った作家が過去を振り返った文章を読むと、しばしばどこか遠い異国の懐かしい物語のような味わいがあります。時代が社会や風俗を大きく変えてしまったから、というのが最大の理由に違いありません。加えて、遠い過去の出来事が作家の手によって掬い上げられるとき、否応なくその出来事は独自の味わいを持って再現されるからでしょう。
「いのちの姿 完全版」(宮本輝、集英社文庫)は、宮本さんにしては珍しいエッセイ集です。しかも文芸誌ではなく、京都の老舗料亭の大女将が年2回、10年間出し続けて懇意なお客に無料で配ったエッセイ誌に連載されたもの。タイトルに「完全版」とあるのは、連載途中で一度単行本になり、文庫版はその後の原稿も収めてあるためです。
取り上げてあるのは、子供時代の思い出だけではありません。パニック障害という自らの病気について、シルクロードやドナウ河の旅の話など、宮本さんの素顔が様々に現れます。登場する人物たちも実に印象的で、色彩豊かに記憶に残ります。
体験を語りながら宮本さんが伝えようとしているのは、体験を通して見てきた人というものの切なさや強さ、ちっぽけさ、つまり「姿」なのでしょう。収録された19編に、「いのちの姿」というタイトルのエッセイはありません。本全体に対しての題です。
このブログで宮本さんを書くのは初めてですが、まさかエッセイ集になるとはなあ..と苦笑してしまいます。「優駿」、最近なら「田園発港行き自転車」あたりを取り上げたかったのですが、記憶だけを頼りに書くのは無理なので再読するしかなく、ここまで宮本さんにはふれずにきていました。
ずいぶん昔に読んだ「優駿」のページを、まためくってみようかと思っています。