ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

今宵、古老の話に耳を傾けませんか 〜「忘れられた日本人」宮本常一

 文学作品を評するのであれば秀作、あるいは傑作という言葉があります。しかし「忘れられた日本人」(宮本常一、岩波文庫)は、フィールドワークに徹した民俗学の仕事。最初の1ページから惹き込まれ、読み終えて、これは紛れもない名著だと思いました。

  

 昭和10年代から戦後まで、宮本さんは日本各地の農漁村、山間を訪ね歩き、村の古老、老女たちから昔の生活と生き様を詳細に聴き取りました。その内容を忠実に記しながら、民俗学者としての視点で構築したルポルタージュです。

 1960年に未来社から刊行され、1984年に岩波文庫に入りました。2023年7月まで75刷を数え、長く読み継がれていることが分かります。

 宮本さんの聴き取り調査は60年以上前なので、当時の老人たちは江戸時代末期から明治、大正、昭和の初めを生き抜いた、僻地の集落の名もなき人びとです。そこに語られた世界の、なんと豊かで貧しく、そして厳しく、ときにおおらかなことか。

 明治維新は西暦何年で、日清戦争、日露戦争はいつだったか、経済や文化の変遷はどんな様態だったか。そんな歴史の教科書に対し、この本には教科書に出てこない庶民の、苦難に立ち向かう生活史が息づいています。歴史学の視野からこぼれ落ちた、しかし圧倒的多数の日本人の生き様が掬い取られているのです。

 「民衆の歩み・民衆史」となると、国家権力を対局に置き、一方の虐げられた存在という左翼的(唯物史観的)な視点がややもすると働き、加えて現代の物質文明との対比によって、どちらかと言えば悲惨な姿をイメージするきらいがないでしょうか。

 その全部が誤りではないにしても、おそらく、極めて片手落ちな見方です。

 宮本さんの「忘れられた日本人」には、偏りを感じません。歴史学ではなく民俗学の仕事だからでしょうか。現在の視点から過去を評価するのではなく、固定観念を廃して、古老たちが生きた時間に寄り添い、その世界の幸せと不幸せを過不足なく記してあるのです。

 解説で歴史学者の網野善彦さんが指摘していますが、この著作は学問としての科学的な視点に加え、叙述の力が卓越している。学者と呼ばれる皆さんには失礼ながら、巧まずしてこれほどの叙述力を持つ専門家は滅多にいないと思いました。

 本の中で古老たちが語る世界は、遠い過去。しかし、浮かび上がってくる人びとの心が、すっと胸に入ってきます。わたしたちの根っこは確実にそこにつながっている。だから、読み進むほど惹き込まれるのです。

 ちょっと(いや、かなり)飛躍しますが、宮崎駿監督の「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」が読後に思い浮かびました。むろん、想像力に満ちた空想世界と現実は別物です。でもあの映像世界を創り出した精神の土壌と、わたしたち、そしてこの本には、何か通じる1本の糸を感じるのです。

 2024年は年明けから暗いニュースばかりです。SNSで大学の同級生(元高校教師で3.11を体験した例の鉄道マニア)と、災害時の民衆の力についてやりとりする中、この本を教えてもらいました。すぐに買ったのですが、ちょっと救われる読書体験でした。

                           

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