ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

老人はライオンの夢を見ていた 〜「老人と海」E・ヘミングウェイ

 世に中にはおびただしい本があって、どんな小説が好きかは人によって異なります。わたしが「この作品は素晴らしい」と思っても、ついさっきショッピングモールですれ違ったたくさんの人たちは、みんな自分だけのお気に入りを持っています。

 若い女性ならハッピーエンドの恋愛ものとか、4人くらい殺されるミステリーに限るとか。いや、そもそも小説なんて読まない人の方が圧倒的に多いかな。

 「名作」とはいったい何なのか。「これはいい」と思った人の数が多くても、ベストセラーは、イコール名作ではない。では偉い文学者や批評家が名作だと判断したら、そうなるのか。なんか違うよなあ。さてさて...

 ..と、こんな1ミリも世の中の役に立たないことを考え始めたのは、「老人と海」(アーネスト・ヘミングウェイ)を読み終わり、この作品について書こうとしたつい先ほどでした。書き出しを迷っているうち、頭の中の思考が見当違いの方向へ逃避行したのです。名作とはいかなる作品かー

 1952年に刊行され、ベストセラーになった「老人と海」。やはり名作、そして傑作です。

 キューバのメキシコ湾流に、手漕ぎと簡易な帆だけの小舟を浮かべ、魚を獲って暮らす年老いた漁師。1匹も釣れない日が84日も続いていました。四肢は痩せこけ、頸に深いしわが刻み込まれ、顔は熱帯の太陽と海の照り返しによる、褐色のしみに覆われています。

 85日目、沖に出た小舟から海中深く垂らしたラインに、強い引きがきます。ついに大物がかかったのでした。ところが獲物は、海上に姿を現すことなく、深い海の底で悠々と沖へ向かって小舟をひっぱり始めたのです。3日間にわたる、老人と巨大なカジキマグロの闘いの始まりでした。

 作品前半は、カジキマグロとの死闘。後半は、遠い海の果てから港へ帰るまでのもう一つの死闘。生きるために、彼は満身創痍になっても、また次々と試練に直面します。自然の壮大な厳しさ、そして人間の尊厳があちこちの行間から滲み出てきます。

 ノーベル文学賞は通常、作家の業績全体に対して授与されますが、1954年のノーベル文学賞は、「老人と海」の作品的達成を主な受賞理由としてヘミングウウェイに与えられました。

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 「老人と海」を文庫本で初めて読んだのは高校生のときでした。大学の英文科に入ると、高田馬場の洋書・ビブロスでさっそくペーパーバックの「The Old Man and The Sea」を買いました。

 ヘミングウェイは、簡潔な文体を積み重ねるハードボイルドを代表する作家です。それなら原文も読みやすいだろうと思ったのですが、実際は辞書片手に四苦八苦したものです。

 とあるきっかけで再読を思い立ち、さすがに原文ははなから諦め、手元にあったヘミングウェイ全集第7巻(三笠書房、1977年)の福田恒存訳のお世話になりました。最初に読んだあの文庫本、表紙のデザインも思い出せるのですが、さてどこへ行ってしまったのか。

 初読のとき、わたしの記憶に強く残ったのは、本筋とは関係のないライオンのエピソードでした。日々漁をする老人は、よくアフリカの砂浜を歩くライオンの夢を見ました。若いころ、水夫としてアフリカに行ったことがあったからでした。

 やがて死闘で全てを失い、帰り着いた粗末な家で、老人は死んだように眠ります。そして、作品のエンディング。

 The old man was dreaming about the lions.

 老人はライオンの夢を見ていた。

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