ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

花火はなくても 天の川はある 〜「おくのほそ道」松尾芭蕉

 必要に迫られ、芭蕉の「おくのほそ道」を再読しました。再読と言っても、前に読んだのがおよそ40年前となれば、ぼぼ初読のようなものです。部屋の古典を集めた一角から引っ張り出してきたのは、昭和53年3月15日発行の講談社文庫(板坂元・白石悌三 校注・現代語訳)。

 当時は大学生で英文科、サークルは仏文研だったわたしが、どうしてこの文庫本を買ったのか、今となればまったく謎です。ともあれ、本文は70ページに充たない俳句の紀行文。必要箇所以外は斜め読みすれば(多少意味は分からなくても...w)、それほど時間はかかりません。

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 一読者として思ったのは、2点。名作と言われるものは、書き出しがいい(ひねくれた言い方をすると『うまい』)ということ。そしてもう1点、これは紀行文という体裁の文学作品、つまり「フィクション」なのだということです。どちらもまあ、当たり前のことなのですが。

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。

 「おくの細道」という作品世界へのこの入り、日本人の精神的な土壌に染み込んでいる、仏教の無常感がほのかに漂ってきます。

 ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。(方丈記)や、

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり(平家物語)などと

 心の地下を流れる水脈はつながっていると思います。

 「おくのほそ道」は冒頭にこのくだりが置いてあることで、この後の作中に出てくる俳句全てに奥行きのある、目に見えない心の背景が生まれます。このあたり、表現を生業にする人間の、しかも一流プロのテクニックだなー。

 さて、新型コロナで花火大会が軒並み中止になった今年の夏。花火はなくても、夏の星座は変わらず輝いています。とくれば、あの有名な一句。

 荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)

 越後路で、七夕伝説にちなんで詠んだ句です。旧暦の7月7日は今なら8月。ところが科学的な視点から、芭蕉が見た越後路から佐渡の方角に、天の川はないとする指摘があります。

 おまけに実際に詠んだ当日(7月4日発句)の天気も、同行した曽良の日記によると夕方からぐずついたらしいのですが。

 え。どーゆーこと?。ここで動揺する心は、純真で正しい。しかし、文学という奴はずる賢いのです。見上げる夜空は想像力を羽ばたかせる広大な舞台です。実際に天の川はそこになく、しかも雨降りだったとしても

 芭蕉は心に映った光景を17文字に託した

 ということでなんら問題になりません。もちろんこれが、ノンフィクションの「俳句紀行ルポ」だったらアウトですが。「おくのほそ道」にはこうしたフィクションが結構仕込まれているようで、「作品」というものについて改めて考えるきっかけになりました。

 そもそも日本人というのは、虚と実の入り組んだ心根については芭蕉よりもっと昔から百戦錬磨なのかもしれません。平安の昔から多くの和歌は恋歌ですが、恋ほど妄想や願望が入る世界はないのですから、歌をそのまま現実(史実)だと思うわけにはいきません。

 散文にしても「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」で始まる土佐日記などは、大嘘から本文に突入します。おい、紀貫之くん、君はいつから性転換したんだ?、などと。

 話に収拾がつかなくなりそうなので、閑話休題。結局「おくの細道」を読んだわたしの妄想が行き着く先は

 「来年は花火大会が見たい!」です。う