草食ではなくて肉食。若い男の体臭が、むんむん臭ってくる小説です。ただしライオンのような猛々しさ、かっこよさは微塵もありません。
汗、酒、煙草、そして浅ましさや愚かさ。冷酷になれないから、犯罪者にもなれない平凡さ。しょせん俺とうい人間はこうなのだー。と、開き直るように言葉を叩きつけ、そこから一人の人間の存在感が立ち上がってきます。
「苦役列車」(西村賢太、新潮社)は、コンテンツ・マーケティングを考えたら、最悪の部類でしょう。どう転んでも女性に好まれそうもないし、心温まる感動を求める多くの読者にとっても、う〜ん、ばつ「×」。
しかし「俺はこれが書きたかったし、これしか書けない」と言う熱量がすごい。作品を破綻させない、作家としての基礎体力も確固としてあります。
単行本の帯から引用すると「友もなく、女もなく、一杯のコップ酒を心の慰めに、その日暮らしの湾港労働で生計を立てている十九歳の貫多。(中略)こんな生活とも云えぬような生活は、一体いつまで続くのであろうかーー」。
最近の言葉で言うなら<下級国民>の代表。1日働いて5,000円。朝、手持ちのお金があればすぐ日雇い労働を休み、家賃を滞納して何度も汚いアパートを追い出され。そんな賢太にも、同年代の友人らしきものができ、友人の彼女まで登場します。
これで大きくストーリーが動くかと期待すれば、結局作品の終わりはこのようになります。賢太は
最早誰も相手にせず、また誰からも相手にされず、その頃知った私小説作家、藤澤清造の作品コピーを常に作業ズボンの尻ポケットにしのばせた、確たる将来の目標もない、相も変わらずの人足であった。
まあ、現実とはそんなものだから、リアルといえばリアル。絵空事に跳ばない、飛べないところが西村スタイルです。
西村さんは自らを、小説家ではなく「私小説作家」と称します。実際の出自や環境、体験をベースにしています。
好き嫌いが分かれる作家さんでしょう。ただ、どちらにしろ否定し難い存在感を発しています。これからの日本社会、貧富の差という分断が進めば、共感する読者は増えてくるかも。ちなみに2010年の芥川賞受賞作です。
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わたしは日本独自の作品形態である「私小説」を、基本的に好みません。
理由は単純で、太宰治の私小説作品が嫌いだから。露悪的に女々しさを垂れ流し、かと思えば「富士には月見草がよく似合う」などど書いてみたり、どうにも生理的に受け付けません。実際に心中沙汰を繰り返し....。「死ぬなら一人で死ね!」と、思ってしまう。
一方で「津軽」「斜陽」などの長編、短編なら「女生徒」などは好きです。しっかりした才能があったのに、どうしてあんな私小説を残したのか。あーあ、<残念な人>ナンバー1。個人的に。
私小説の最初は、田山花袋の「蒲団」(1907年)とされています。文学史上は、スルーできない作品。未読ですが、ものの本によればこんな内容。
作家(=花袋)が、若い女の弟子に横恋慕します。勝手に妄想だけ膨らませてすったもんだした挙句、去った弟子が使っていた蒲団の匂いを嗅いで悲しみに暮れる...。
まあ、読みたいとは思いません。これも私小説の印象が悪くなった一因。
そこで現代の私小説作家・西村さんです。私の私小説嫌いは簡単には変わりません。
でも「苦役列車」は、読んでよかったと思っています。