ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

三島由紀夫 〜作家つれづれ・その5

 <既視感>という言葉があります。初めて訪れた地なのに、いつかどこかで、この景色を見たことがあるような。もし過去に本当に見ていたのなら、そこは初めて訪れた地ではないのだから、これはそもそも矛盾で成り立つ感覚です。

 本に当てはめるなら既読感とでもすべきなのでしょうが、細かいことはさておき。平野啓一郎さんの「ある男」(文春文庫)を開き、本編の前に置かれた短い「序」を読み始めただけで、わたしは既視感にとらわれ始めました。

 初めて読むのに、どこか懐かしいような肌に馴染む世界。これは優れた作品が、しばしば持ち合わせる要素の一つです。ただ「ある男」に限って言えば、漂ってくる懐かしさに、わたしは具体的なイメージを投影してしまいます。

 三島由紀夫。

 平野さん自身、三島について何度か語っていたように思いますが(平野さんの熱心な読者ではないので、断定できるほど知りません)、基本的には一人の読み手としての自由勝手な受け止めです。しかもわたしの三島体験はずいぶん昔なので、漠然としたままの印象を出ないのですが。

 「ある男」冒頭7ページの「序」を読んだだけで、先へ進むのが少し惜しくなり、部屋の一角を眺めました。書架の隅に三島の全集35巻や単行本、文庫本、関連本数十冊がひっそりと長い眠りについています。

 新刊で買ったものもありますが、大半は早稲田の古本屋で1冊、1冊、買い集めました。どれも学生時代の貧乏生活の思い出と結びついています。歳をとっていいことがあるとすれば、たとえガラクタのような記憶でも、たくさんの過去を持っていること。

 さて、わたしが三島を読んでいたころ、三島由紀夫という人はすでにこの世にはいません。割腹という壮絶な死は過去の出来事で、それは戦後という時代を象徴する事件にも、なりきれていませんでした。ところがわたしは三島作品に引き込まれました。

 なんと精緻で魅惑的な頭脳と感性!。そして、不器用さ。個人的な三島のイメージは、これに尽きます。

 「仮面の告白」「午後の曳航」「潮騒」などの中編は、完成度の高い傑作だと思います。しかし「金閣寺」や長編で、しばしば人物が精緻に作られた思考ロボットのような雰囲気をまとってしまう。

 小説に関してはどれも優れた知性・感性と、真のどろどろを描けない不器用さがせめぎ合っていて、そのせめぎ合いが面白くもあるのですが。最後の「豊穣の海」では、鬼気迫るような、作家としての資質の調和に至るところが凄い。

 「近代能楽集」「サド公爵夫人」などの戯曲、評論は、ストレートに知的な資質が生きていて、むしろ小説より安定感があります。

 文学に加えて、政治的姿勢と発言、行動、肉体改造。全ては<不器用な天才>が自己実現を目指した、人間としてのもがきだったというのが、わたしの乱暴な総括です。

 あえて極論するなら、三島にとっては<自分>こそが主人公であり、文学も含めたさまざまな活動は、自分を表現するための複数の手法に過ぎなかった。その果ての花火のような散り際は、自分(=三島由紀夫という究極の作品)の避けられないクライマックスだったように思えます。

 ところで三島は、太宰治が大嫌いでした。太宰は私小説という手法で、自らを虚構化してさらけ出しました。2人に共通点はほぼありませんが、自らを虚構化するという根っこについてのみ、同じです。

 三島の太宰嫌いに、どこか近親憎悪のような気配を感じるのはわたしだけでしょうか。近親憎悪ほど、外からは見えにくくて根深い憎悪はないと思います。特に2人は作風も全然違うし。でも結局は、どちらも自死を遂げました。

 ということで、突然<終わり>。

 

 40年前の読書体験による記述なので、大雑把な文章なのはお許しください。今後、三島作品を再読することがあるかどうかは不明ですが、昨年、ヤフオクで1冊の本を落札しました。

 「定本 三島由紀夫書誌」(薔薇十字社、1972年、絶版)。三島の書斎、書庫にはどんな本があったのか。そのデータ、リストの羅列です。

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 平野さんの「ある男」は、読了後にレビューを書きます。10月から新しい仕事(編集者としてのお手伝い&原稿のアンカー)に取り掛かったので、しばし、ブログを書く余裕はないかもしれませんが。