ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

激辛でも濃厚でもなく 静かに沁みる 〜「灯台からの響き」宮本輝

 読んでいるうちに、何かをしたくなる本があります。そわそわと、椅子から立ち上がりそうになってしまい。「灯台からの響き」(宮本輝、集英社文庫)も、そんな1冊でした。

 父の味を守ってきた中華そば屋の62歳の男が、黙々と仕込みをするシーンを読むうち、無性に彼の店に行きたくなりました。下町の商店街とお店が眼前に浮かび、癖のないスープのすっきり味が、口の中に広がったのです。

 また急死した妻に導かれ、日本各地の灯台を巡る彼の姿に、いつの間にか自分を重ねて旅に出たくなったり。

 戦後に父が開いた店・中華そば「まきの」は、東京のとある商店街にあります。高校を中退した彼は、父の店を継いで結婚、夫婦で店を切り盛りして味を磨き、中華そばを売って3人の子どもを育て上げました。

 流行りの奇抜なラーメンではなく、昔ながらの中華そばの味に、彼は黙々とこだわっています。ところが2年前に妻が急死。以来、店は休業したままでした。

 ある日、彼は本に挟まれていた妻宛ての葉書を見つけます。届いたのは30年前、差出人は彼の知らない男子大学生。葉書には日本のどこかの海岸線と灯台らしき印が描かれていて...。なぜ妻は、これを本に挟んだままにしておいたのか。差出人は一体だれなのか。

 

 これが娯楽物ミステリー小説であれば、平凡な一人の男が亡き妻の過去をたどるうち、昔の殺人事件が明るみに出て、非日常的な世界が広がり始める...。なんて展開になりがちで、それはそれで面白そうですが、宮本さんの作品はもっと地に足がついた世界を描いて人生の価値を問いかけてきます。

 ニュースになるような出来事に遭遇することが、波瀾万丈の人生だとは限らない。日々の暮らしの喜怒哀楽の積み重ねにこそ、波瀾万丈がある。そして、一瞬の中にも永遠がある。たいていの人はその事実に気づくことなく、ただ時が流れるに任せているのではないか。全編を通して、そんな問いかけが聞こえてくるようでした。

 わたしたちは自覚的であるつもりで、けっこう無自覚に生きています。一瞬一瞬の判断で言葉を発し、行動しています。あの時どうしてあの判断を下したのか、なぜああ言ってしまったのかと、ふり返ってようやく見えてくることがたくさんあります。

 旅先で買った絵葉書だって、いつか懐かしく過去をふり返る未来のための1枚です。後に思い出し、思い巡らすことでようやく、わたしたちは<体験>というものの豊さを獲得するのかもしれません。

 妻宛ての葉書の地図に記された灯台は、見つかります。そして何十年も前に妻が遭遇した、貧しさゆえの悲しい出来事が、彼の前に立ち現れます。それは葉書の差出人の人生を支える出来事であり続けました。

 激辛でも濃厚でもないけれど、波瀾万丈ですっと心に沁みてくる小説の味。うまいなあ。

           

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