ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

カツ卵とじ定食 〜食の記憶・file1

 1976年4月、わたしは早稲田大学教育学部英語英文学科に入学し、東京都大田区南馬込1丁目にある、老人夫婦宅の離れ6畳1Kに暮らし始めました。2023年の今から、遡ること47年前のことです。

 下宿代は月15,000円。プラス電気、ガス代。仕送りは6万円なので、差し引き1週間1万円が生活のベースでした。夏休み、春休みは土木作業員(連日もろに肉体労働の土方、です。後に中上健次さんや西村賢太さんの小説に親近感を抱いたのはこの体験のせい)で稼いでも、みるみる本と飲み代にお金が消えて、少々のバイトでは追いつきません。

 部屋にはテレビも冷蔵庫も、もちろん電話のような贅沢品はなく、しかし電気釜だけは生協で買いました。いざとなれば本を売り、飯にマヨネーズとソースをかけて洋風、卵と醤油なら和風で食いつなげると思っていたからです。

 下宿から一番近い古本屋さんまで、歩いて30分ほどかかりました。実際に本を詰めた重い紙袋を抱え、息を切らせて売りに行き、帰りに米5キロを買ったことも何度かありました。これでしばらくは食いつなげる、今日はちょっと贅沢しようか..という安堵感。池上線・旗の台駅の近くにあった古本屋さんでした。

 あのときどんな本を売ったか、未だに何冊か書名を覚えているから面白い。どれを手放すか、出かける前に散々迷ったからなあ。

 学生時代のわたしの食生活は、朝はインスタントコーヒー。昼は(大学に行った日は)学食、もしくは周辺の学生食堂で食べて、これがメーンの栄養供給源。夜は下宿で適当に、味より満腹になるものを腹に入れて、発表の当てもない原稿を書き続ける。

 もしくは、仏文研(仏蘭西文学研究会という仰々しい正式名称でしたw)の仲間と山手線・高田馬場周辺の飲み屋で何を食べたか定かでないまま、安いウイスキーをあおって議論しているか。まあ、そんな具合でした。

 さて、下宿していた南馬込の商店街に、かなり年季が入った食堂がありました。木の枠にガラスを嵌めたショーウインドーはちょっと曇っていて、中には天そばにうどん、親子丼、カレーライス、キリンビールなどが並び、要は庶民感満載のお店でした。

 そこに、わたしはとある一皿を発見しました。「カツ卵とじ定食」。定食とあるからには、注文すればその一皿にご飯、味噌汁、漬物は付いてくるのでしょう。何とも斬新なアイディアあふれる定食に思えました。カツを卵でとじた一品なんて!。

 本を売った日だったか、仕送りがあった日か、バイト代で懐に余裕があった日なのか、もう覚えていません。わたしは店に入って隅のテーブルに腰を下ろし、「カツ卵とじ定食」を注文したのです。

 運ばれてきて、食べながらようやく、それがカツ丼の白いご飯と具を別々に盛っただけの定食だと気づいたのです。軽いがっかり感と、おかしさが込み上げてきました。

 少し想像すれば分かりそうなことを、勝手にあらぬ期待を膨らませていた自分がおかしかった。そして「カツ卵とじ定食」は、確かに美味しかったのです。カツ丼の方が手っ取り早くていいかな、とも思ったけれど。

 10数年前に商店街を再訪しましたが、あの食堂はありませんでした。わたしは今も、カツ丼を食べるたびについ思い出します。

 

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 ちなみに、こんなのもあるようです。

 

 

この「食の記憶」シリーズ、気が向いたら断続的に続けてみます。