何度もくり返しわたしを惹きつける、そんな要素の一つに<不完全さ>というものがあります。
酒に例えるなら、磨き上げられたグラスに注がれる半透明のカクテルのような。美しい色合いが、早く味わってくれと囁いてきます。飲む前から酔ったような気分になって口にしてみると。...ん、やがてとまどいが広がるのです。
味は迷路のような精妙さ。しかし飲むほどに、味の土台に含まれているはずの要素が何か一つ、決定的に欠けている(わたしにとっては)。そうなると<美味しい><不味い>の評価基準で表そうとしても無理。でも凡人のわたしは、高度で特殊な評価の目盛りが刻まれた物差しなど持っていません。
だから敢えて言葉にするなら、<不完全な美味しさ>としか言えません。そしてこの<不完全さ>という欠乏感は、ときに厄介なことになります。
100%の美味しさは、慣れるのも早く、やがて飽きさえします。欠乏感を含んだ美味しさこそ、繰り返して満足感を求め続けることになります。そこから100%の満足感を得ることは永遠にないと、頭では理解しているにもかかわらず。
大学時代のわたしにとって澁澤龍彦はそうした酒、ではなくて作家でした。同じような作家をもう一人挙げるなら三島由紀夫かな。
澁澤はフランス文学者、評論家、そして晩年は小説家でもありました。晩年と言っても、1987年に59歳で亡くなっているので、50代のことですが。
わたしにとってはまず、サドの翻訳を筆頭に、ヨーロッパ文化史の表に出てこないサブカルチャーや暗黒面を掘り起こし、日本文学や美術、社会現象を論じた評論家でした。
驚くべき知識量をベースにした論理展開は極めて明晰、精緻。そして俎上に載せられるのはエロティシズム、死、幻想、異端などのキーワードでした。本は例外なく凝った装丁で、これも若かったわたしの感覚に訴えてきました。
三島由紀夫とほぼ同年代で、お互いを認め合う関係でした。両者の心のベクトルを想像し、「なるほど、そうだろうな」と思ったものです。(余談ながら、三島は太宰治が大嫌いだったのは有名ですが、これも二人の作品を読み比べてみれば何となく納得できるようで、苦笑いするしかありません^^;)
書架から「偏愛的作家論」(青土社、1978年)を取り出して、久しぶりに目次をめくってみました。取り上げてある作家は石川淳、三島由紀夫、稲垣足穂、谷崎潤一郎、夢野久作、花田清輝...など24人。大御所からマニアックな面々まで、顔ぶれから逆に澁澤の個性がシルエットされるようです。
何だか小難しくなってきたので、余談をもう一つ。わたしが30歳過ぎのころ、仕事で独身の女性画家を訪ねたことがありました。彼女は若手の選抜展に出品することが決まっていて、作家紹介の取材でした。
アトリエ....いや、港町の海風に痛めつけられた古い木造家屋の、急な階段を上った2階和室が、画家の仕事場でした。
「大学を出てからも東京で描いていたけれど、父の介護が必要になって田舎に戻ってきた」...と経歴を聞いているうちに、文学の方は澁澤龍彦のファンだと分かったのです。それからしばらく、仕事そっちのけで澁澤について語り合ったものです。
帰ってどんな記事をでっち上げたかはもう覚えていませんが、彼女の小品が数点、うちにあります。ついでなので1点だけ紹介。これも澁澤が取り持った縁?かな。
さて、澁澤の仕事の核心にあるのは、エロティシズムなど人間の<情念>の世界に属する領域です。一方で、膨大な知識や繊細な論理による言葉は<理知>に属する道具です。
<理知>のツールで<情念>を描くとは、例えばいくら絵具を混ぜ合わせ、駆使しても、決して出せないある色を追い求めることなのかも。特に明治以降の日本が確立しようとした言葉の在り方は、西欧の言語的明晰を手本としました。むしろ主語を大胆に省略する昔の日本語文脈の方が、情念に寄り添っっていたと思います。
澁澤の仕事に感じた欠乏感とは、もしかするとそういうことかと、勝手に、無理やり、強引に納得しないと...実は書きながら飲み始めた焼酎が効いてきて、もうこのたわごとの先を続けられないのです。う。
正月2日、本日はこれから遠慮なく飲ませていただきます。