ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

道化と仮面 それぞれの生と死 〜「人間失格」「仮面の告白」

   くー

 <全集はどちらも昔、高田馬場の古本街で買い集めたもの。おまけ?で、古本屋と飲み屋に通っていたころのわたし。以下はかなり個人的かつニッチで、やや長い文章になります。作品を未読の方にも分かるよう努めますが、力及ばない部分はご容赦ください>

 

 プロローグ(...わたしの中の空想図・交友関係)

 親しくなりたいと思わない。しばしば目を背けたくなる。けれど、なぜか何度も一緒に酒を飲んでしまう。ダザイ・オサム君はそんな小説家でした。わたしが若いころの話です。

 青森の裕福な旧家に生まれたダザイ君は、子どものころから、道化を演じて人を笑わすのが得意だったようですが、実はとんでもないネクラな性格。ネクラだからいつも物静かに隅っこにいるのかと思えば、変に女性にもて、しばしば暴走します。

 結婚を決意した女性がありながら、銀座のバーの女と心中を図って自分だけ生き残ったり、自殺未遂を繰り返したり、なんとも人騒がせなやつです。日々飲んだくれ、困り果てるとどこかの女性のところに転がり込む。ぐずぐず思い悩み続ける。しかも体験を私小説の題材にするのだから手に負えません。

 カウンターで彼と飲んでいると、虚勢の向こうの彼はやはりナイーブで、わたし自身の弱さをあからさまに拡大して目の前に見せつけられているようで、こちらが疲れ果て、腹立たしくさえなります。しかし彼は、自分は「人間失格」だと嘆きながら、それを飯の種にして人気を得ているのですから、実はとんでもなく図太いやつにも見えてきます。

(wikiより引用)

 そんな翌朝、二日酔いで顔をしかめているわたしに、太陽の下で

 「やあ」

 と声をかけてくるのはミシマ・ユキオ君です。

 ミシマ君は、東京の名家の長男に生まれた秀才。理路整然とした話ぶりはほれぼれするほどで、やはり小説家になり、きらびやかな比喩と理知で埋め尽くされた彼の文章を評して「論理の抒情」と、褒めた人がいるくらいです。

 ダザイ君に付き合った後の暗く垂れ込めた気持ちを、ミシマ君との知的な会話はきれいに洗い流してくれます。ミシマ君はわたしにとって、ダザイ君の解毒剤のような友人。日々の暮らしにうんざりするわたしの気持ちをすっきりさせてくれます。

 そんなミシマ君ですから、世間に適応できないダザイ君が好きなわけはありません。ミシマ君はエッセイで、破滅型のダザイ君をこれ以上ないくらい冷笑しました。

 

 太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治されるはずだった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。

(「小説家の休暇」1955年)

 

 なんともミシマ君らしい、スカッとする正論です。ダザイ君の私小説、人間性をすっぱり切り捨てました。

(wikiより引用)

 規則正しい生活、知と冷徹な認識を愛したミシマ君は、最後まで「自らの正論」を創り続け、それに殉じた人でした。一方のダザイ君は正論など大嫌いで、でも世の中の正論を恐れた。智よりも個人的な情動の人です。

 さて、ダザイ君の最期は推して知るべし。38歳でまたもや女性と心中を試み、ついにあの世へ行きました。あまりに乱れた生活、言動が災いして「今度も狂言自殺のつもりが、間違って本当になったんだろ」と言った編集者さえいたとか。

 一方のミシマ君は小説家として大成し、ノーベル賞候補と言われました。作品が多い分、わたしは必然的にミシマ君とより親しくなったのですが、そうなればなるほど、やがてある違和感が拭いがたくなりました。

 彼の小説の多くは、例えば登場人物にナイフを突き立てたとき、本物の血が流れる気がしません。ミシマ君の並外れた知性が生み出した精巧な操り人形。いや、ミシマ・ユキオという存在そのものが仮面の虚像で、後ろにある素顔が決して見えない。そもそも彼に素顔などあるのか?。

 ダザイ君は「道化」という仮面だけでなく、むしろ仮面の背後にある生身の醜さを晒して文学を創り上げました。一方「仮面の告白」で出世したミシマ君は、ひたすら仮面を育て上げ、ついに仮面が素顔になってしまった。文学から日本文化論、政治的発言&行動へと、ミシマ君の仮面は進化を続けました。

 あれほどダザイ君を毛嫌いしたミシマ君ですが、皮肉なことに最期は同じく自死でした。日本刀による割腹、介錯の大学生に首を落とさせるという幕引き。ダザイ君とはずいぶん違う、自死の作法だったけれど。

 

 <太宰治>1909〜1948年。青森県生まれ。無頼派を代表する典型的な自己破滅型の私小説作家。38歳没。

 <三島由紀夫>1925〜1970年。東京生まれ。小説や戯曲は多数外国でも翻訳され、ノーベル賞候補になった。45歳没。

 

 「人間失格」 1948(昭和23)年

 太宰治の代表作の一つとされる晩年の自伝的小説です。晩年といっても、若くして死んでしまったから<晩年>なんだけど。後半部分が雑誌掲載されたのは死後でした。

 作品は、葉蔵という青年が書いた3篇の手記で構成されます。たまたま太宰本人がこの手記を入手したという設定で、冒頭と末尾に登場しますが、葉蔵が太宰自身の投影であることはだれにも明らかです。

 恥の多い生涯を送って来ました。

 手記の冒頭はいきなりこう始まります。そして幼いころから、自分がどれほどの「生きづらさ」を抱えて成長してきたかが、延々と細かく自己分析されていきます。

 人間に対して、いつも恐怖に震ひをののき、また、人間としての自分の言動に、みぢんも自信を持てず(中略・しかし本性を)ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装ひ、自分はお道化た変人として、次第に完成されていきました。

 葉蔵は道化の仮面を被ることで、ようやく外の世界とつながることができました。しかしこの仮面も、大人になるにつれて万能ではなくなります。代わりに必要となったのが酒、薬物、女性。そして小説を書くこと。(作中では小説ではなく絵描きの設定です)

 読み進むうち、わたしは何度も「うっ」と、顔をしかめます。おいおい、いい加減にしてくれ。自分がいかに弱い人間(人間失格)かをそんなに言い募られたって...。

 なんにでも病名を付けることが得意な現代医学に倣えば、ここに描かれている繊細すぎる男は明らかに、適応障害。

 ただし。人間はみんな、程度の差はあっても「生きづらさ」を抱えています。この作品が共感を得るのは、そこにあるんだろうな。そもそも人間社会は、わたしを含めて適応障害でなければその予備軍の集まりです。

 そして不思議なのは、葉蔵はこれほど丹念に自意識と「生きづらさ」を暴露しながら、周囲の人もまた弱い存在で、「生きづらさ」を持って自分と接していることに、全く想像力が働かないこと。

 他人はどこまでも強く、思いがけなく起きる事象(例えば妻が男に...)はいつも怖い現実であり、直視できず逃げます。やれやれ。

 くせの強い地酒のような小説。美味しさに酔うか、まずいか、まあ読むのは勘弁してくれなのか、人それぞれだと思います。

 

 「仮面の告白」 1949(昭和24)年

 三島由紀夫の書き下ろし小説。太宰の死の翌年に刊行され、当時はまだ知られていない若手作家だった三島は、この1冊で有名になりました。一人の青年が半生を語る、独白調の作品。書き出しから印象に残ります。

 永いあひだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張ってゐた。

 そんなことがあるわけないと、大人たちからさまざまに言われても、<私>の記憶の中では、うぶ湯を使わされたたらいの木肌と、水に射す光の映像が揺れているのです。印象的な作品の入り。また、これから始まる物語のルールが密かにここに示されてもいます。

 つまりこの小説は、社会で通用する客観的事実より、徹底して<私の真実>にこだわるのだと。そして戦前、戦中という時代を背景に、<私>の性の目覚めと進展が丹念に描写されていきます。

 特異なのは、幼いころから<私>の心と体が蠢く性の対象が、女性ではなく男性だったこと。引き締まった筋肉に覆われた逞しい若者、しかもその体に矢や刃物が深々と刺さり、血を流して息絶えようとする残酷なシーンが、もっとも<私>を夢中にさせました。

 物語は単純な行動描写、風景描写では進みません。一つひとつの出来事に心理分析のメスが入り、言葉を費やして自己認識が積み上げられ、比喩を駆使してきらびやかなイメージで飾られます。

 こうした文体を好むか好まないかは別にして、そこに三島の研ぎ澄まされた知性が立ち上ってきます。やがて戦争という、死が隣にある非日常の日常が終わったとき、<私>は、長い戦後の時代をどう生きていけばいいのか。小説は、終戦後の混乱期で幕を閉じます。

 デビュー作には、作家のすべてが詰まっていると言います。「仮面の告白」は厳密にはデビュー作ではありませんが、三島由紀夫という作家の、その後のすべてを内包した作品です。

 膨大な後の作品群の萌芽があるだけでなく、やがて三島は実生活においてもボディービルに通って筋肉で全身を覆い、剣道に打ち込み、最後は自ら腹に日本刀を突き立てて果てたのですから。自衛隊、市ヶ谷本部で起きた事件はまるで、子どものときから<私>を夢中にさせた、あの陶酔的な残酷シーンの再現なのです。

 

 素顔(....結びに、頭の体操でも)

 太宰の道化の仮面は、分かりやすい。飲んだくれの「人間失格」の姿が、素顔ということになります。しかし、私小説といえど、描かれている内容と作家の素顔は完全に重なるはずがありません。

 まあ、太宰の場合はかなり重なると思うけどね。

 三島の「仮面の告白」の、仮面とはなにか。これは見えづらい。同性愛者としての顔と、それを隠して生きる顔、と考えるなら事は簡単なのですが、三島はそれほど単純な作家ではないな。作品の発表当時、仮面の意味についていろいろな批評家たちが話題にしたそうですが、想像するに、その状況を三島は黙ってほくそ笑んで見ていたのではないでしょうか。

 極めて曖昧な記憶ながら、どこかで三島が書いた文か、あるいはだれかの三島論だったか、確かこんなくだりがありました。

 仮面を剥げば、下に別の仮面がある。その仮面を剥ぐと、また仮面が現れる。剥がし続けた最後には...何もない。

 そもそも、日々の暮らしでさまざまな自意識と顔を持ち、使い分ける人間に「素顔」なんてものがあるのか、ということですね。うーん。気の利いたレトリックのような、真実のような。

 確かに「あなたの素顔は?」と問われたら、わたしだって言葉に窮するのだけれど。

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(文中の引用は、全集収録の旧仮名遣いそのままです。太宰治、三島由紀夫の写真は出典を明記の上、wikipediaより転載しました)