「破船」(吉村昭、新潮文庫)は、感情を排した描写に徹し、淡々と言葉を紡いで恐ろしい寓話世界へ案内してくれます。
背後に山々が迫り、目の前は岩礁に白く波が砕ける僻地。へばりつくようにして人々が生きる小さな村があります。舞台は江戸時代、小舟を出しての漁労、海が荒れれば山に入ってキノコや薪を求める貧しい生活です。
四季折々の営みや、死者の葬送が語られます。しばしば働き盛りの男や娘が、銀と引き換えに期限付きで自らの労働力を売り、何年も村を出る。そうしてようやく、一家は生き抜くことができるのでした。
ふと、姥捨伝説を小説にした「楢山節考」(深沢七郎)を思い出しました。「楢山節考」は山村ですが、こちらは海辺の僻地の過酷な不幸の物語です。風土に根ざした重い情念が、乾いた文体の背後から漂ってきます。
何年かに1度、村には海から僥倖が訪れます。
それが「お船様」。
冬、村人たちは夜通し浜で火を焚きます。「お船様」とは、荒波の中でその明かりに誘われ、岩礁で座礁した船です。村人たちは乗組員を葬り、米などの積荷を奪います。罪の意識は伴いません。あったとしても封印されています。なぜなら、自分たちが生き残るためのすべだから。
何年も「お船様」がなく困窮していた冬、積荷を満載した船が荒天で座礁しました。喜びに沸きかえる村。さらに翌年、また「お船様」が。ところがこの船は、死者だけを乗せており、村に悪夢のような災厄をもたらすのです。
ストーリーを追えば、現代のミステリー、あるいはパニック小説のよう。もし今の作家が描いた小説であれば、災厄と村が崩壊する過程に多くのページを費やすと思います。
ところがこの作品で災厄の発端から終わりまでが描かれるのは、終盤の60ページほど。淡々とした筆致は変わることなく、人の愚かさと哀しさが静かに立ち上がってきます。
実力はあるけれど、どちらかと言えば地味な作家の、代表作とも言いにくい作品ですが、これは隠れた名品です。
<作家メモ> 吉村昭(よしむら・あきら)。1927ー2006。東京・西日暮里生まれ。1966年「星への旅」で太宰治賞を受賞。現場や証言取材、史料を駆使して記録文学や歴史小説を多数残した。主な作品に「戦艦武蔵」「関東大震災」「ふぉん・しいほるとの娘」「高熱隧道」など。作家、津村節子は妻。わたしの記憶が確かなら、吉村の死後に、津村は「夫の小説は読んだことがない」と対談で語ったことがありました。それぞれの世界を持った小説家夫婦のあり方を、垣間見た気がしました。