姥捨山とは。食糧の乏しい山間部の集落で「口減らし」のために、ある年齢に達した老人を山に棄てる物語です。生きるための厳しい営み、因習に塗り込められた村社会。日本各地に伝わる棄老伝説を、文学として見事に昇華させたのが「楢山節考」(深沢七郎、新潮文庫)です。
ちょっとたどたどしい感さえある語り口。文章修行で鍛えた小説家の筆ではなく、宮澤賢治の童話のような文章が、淡々と<山に行く日>に備える老婆と村の日常を描き出していきます。
現代の小説に慣れた手練れの読み手ほど、こういう文体に焦れて、目先の面白さを求めて斜め読みに先を急ぎがちですが、我慢して一文一文に向き合いましょう。それが最終的に作品の凄さに圧倒されることにつながります。
ヒューマニズム、文明の成熟、社会の豊さ貧しさ。そんな軽い言葉で(本来は軽くない視点ですが)論評することを、凛として拒む雰囲気を持っています。これはやはり、小説というより「文学」だなあ。達者な文章ではなく、一見素朴な語り口で築かれた、冷たいほど揺るぎない作品世界。解釈せず、ただ向き合え、と。
棄てられる日である「楢山まいり」を待ち、未だ丈夫な歯を恥じる老婆・おりん。集落の中で盗みを働き、一家ごと消される家。終わったことは、決して語ってはならない。言葉にさえしなければ、なんであれ消えていく。そしておりんが置き去られる、山上の光景とは....。白骨と、降りしきる雪。
政府が統計を取りはじめた1963年に153人だった100歳以上の高齢者は、2020年の統計で8万人を超えました。長生きする人が爆発的に増えたことは、本来素晴らしいことなのですが、今の日本にもろ手を挙げて歓迎する空気はありません。
高齢化という言葉がたいていネガティブに使われるのは、21世紀のあるべき社会作りに失敗した政治とわたしたちの責任です。
そして現代の高齢者は、自分を山に棄てに行ってくれる息子さえそばになく、貧しく、孤独。しばしば老後破産や生活保護、そして孤独死。
貧富の差が広がる分断社会が進行するほど、「楢山節考」は現代の光を浴びてまた新しく浮かび上がる気がします。それも、切ない話なのですが....。ところで今月21日は、敬老の日。