もののけ姫の世界が蘇った
ブログを通じた知人、レノンさんが「邂逅の森」(かいこうのもり 熊谷達也、文藝春秋)について記した文章を読み、思わず「なるほど」と膝を打つ思いでした。
もののけ姫かあ。この作品の世界観をこんなふうに分かりやすく言い切ることを、わたしはとうてい思いつきません。そして見事に本質をついています。実は「邂逅の森」には個人的な思い入れが少しあって、それはこの稿の終わりに触れます。
作品の時代は明治、大正、昭和の初め。主人公の松橋富治は、秋田の深い山奥の寒村に生まれたマタギです。
【またぎ 東北地方の山間に居住する古い伝統をもつ狩人の群れ】(広辞苑)
厳しい自然が支配し安易な人の侵入を阻んできた東北の山々にも、文明開花以降の時代の流れが侵食してきます。
富治はマタギとして生涯を貫くことができずに故郷を棄て、しかしマタギとしての血に抗うことができません。彼はやはり、山に生きる者として人生を辿ることになります。
そんな富治の生き方を左右するのは、2人の女。生きるとはつまり、男と女の初々しくて、馬鹿馬鹿しくもあるもつれあい。虚飾を剥ぎ取っとった愛憎が、通奏低音のように同時進行します。ちょっと涙が出そうな場面や、怖い一幕もあったりして。
自然に対して、女に、男に対して、共通しているのは嘘のない主要登場人物たちの心根です。
物語の魅力がわくわくするストーリー展開にあることは確かですが、基盤に作品が描き出す世界観があることを忘れるわけにはいきません。だからこそ、その世界観に何度も触れたくて、一度読んだ本もまたページをめくることがあります。
例えばこの本のように。
「邂逅の森」の世界観を分かりやすく言えば、確かに「もののけ姫の世界が蘇った」ですね。森には神様がいる。人の営みを超えた高みから森の全てを支配する、荒々しく、嫉妬深く、慈悲に溢れ、なんと人間的な神様か。怒りに触れれば、人などたあいもなく死ぬ。
そんな神様を創造したのは、自然の一部を担い、日々五感に流れ込んでくる現実を必死に生きる人間たちの魂です。
自然といえば管理された公園の木立ちやせいぜい車で出かける森林浴、動物はペットか檻の中の生き物だと思い込み、どこにも野良犬さえいなくなった現代社会。しかしマタギが生きるのは異世界です。そして、本来どちらが<本当の自然>なのか。
自然との<共存>という表現を、避ける専門家がいます。いつから人間は自然と並び立ち、競合やら共存やらする存在になったのかと。確かに新型コロナウイルスも、自然からの「ささやか」な人への警告なのかもしれません。
作品の最後は、富治と森のヌシである巨大グマの命をかけた戦いです。凄惨な戦いの後に広がる世界は、かろうじて...一筋の光につながります。
********
この小説が「別冊 文藝春秋」で終盤を迎えた2003年、わたしは若い記者数人とチームを組み、所属する新聞の1面長期連載の取材に入っていました。当時はこの小説はもちろん、小説家・熊谷達也という人そのものを知りませんでした。
取材班の目的は森林破壊、追い詰められるツキノワグマなど野生動物たちの逆襲と人の軋轢、そして根底に横たわる地球温暖化を、現場目線のフィールドワークで記録することでした。
その過程で、この小説の主人公である松橋富治の故郷、秋田県阿仁町を訪ね、マタギの松橋時幸さん(2003年当時、70歳)からたくさんの言葉を聞き取ったのです。小説の富治と、時幸さんがどんな関係に当たるのかは分かりません。
(「沈黙の森」マタギの松橋さんのルポ部分)
ルポの連載は終了後に本(『沈黙の森』絶版)になり、ジャーナリズムの世界で2つの賞を相次いでいただきました。そして2004年年末、ある新聞の文化欄に「今年読んだベスト10」という企画があり、熊谷さんがトップにあげてくれたのは『沈黙の森』でした。
なんとも手前びいきですが、個人的に「邂逅の森」はそんな昔話とつながっている作品なのです。
最後になりましたが、レノンさんの記事には以下から飛べます。