ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

真面目な下ネタ比較論? 〜「現代語訳 日本書紀」(福永武彦訳)

 「古事記」と「日本書紀」。日本最古の歴史書・2書を称して「記紀」は、その昔教科書に出てきました。当時、テスト対策で覚えるために「古事記、古事き、こじき」と暗唱にすると、条件反射みたいに乞食さんの集まりが頭の中に浮かんで...。そんな記憶がよみがえるのは、わたしだけでしょうか。

 「現代語訳 日本書紀」(福永武彦訳 河出文庫)は、原典からのごく一部の抄出(といっても文庫で400ページ超)です。どうして読もうと思ったのか。乱暴に要約するなら、神話に<シュールな物語>を期待したからです。

 実は「古事記」を少し齧っていて、その多彩な異曲である「日本書紀」に興味が及んだことが出発点です。『面白かった!』などと叫んで、みなさんをだましたりはしません。一部を<飛ばし読み>したことも告白します、ごめんなさい! と懺悔。あっ、懺悔はキリスト教で、日本の神様とは関係ないか。 

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 私たちが暮らす本州その他の島々がなぜ存在するのか。記紀によれば、男神と女神がエッチをして生み出したからです。いわゆるイザナギとイザナミによる「国生み」神話です。

 「古事記」ではこんな会話で男女の神様がエッチに雪崩れ込みます。(以下、個人的な現代語訳w)

 「お前の身体はどういうふうに出来ているのか?」

 「私の身体には完全なようでありながら、足りないところが一つあります」

 「おれの身体は完全なようでありながら、余ったところが一つある。おれの余ったところで、お前の足りないところを<刺し塞ぎて・原文ママ>国を生もうと思うが、okしてくれるか?」

 同じ部分、「日本書紀」はこうなります。福永武彦訳。

 「お前の身体はどういうふうに出来ているのか?」

 「私の身体には女の元(はじめ)の場所が一つあります」

 「私の身体にも元の場所がある。二つの元の場所を合わせよう」

 年代の古い(712年)「古事記」の記述は、子供に読み聞かせるには若干の抵抗がありますが、8年後(720年)に完成した「日本書紀」ではより教育的?にソフトフォーカスされているような。

 こうした違いはけっこうあって、イザナギは火の神を生んだために死にます。死因について古事記は「みほとを炙かれ」(ほと=女陰)と直接的に記述しますが、「日本書紀」は単に「(からだを)焼かれて」あるいは「あまりの熱さに苦しんで」となります。うーん。なんだか一昔前の戦後日本の猥褻論争を思い出してしまう。

 ちなみに両書の価値に関して、リアリズムに徹した「古事記」の方に軍配をあげたのは本居宣長でした。

 エッチ、昼メロ的に綴れば『愛の交歓』は、人の営みの基本的な土壌です。こんな神話(彼らにとっては権威ある歴史書)を記した古代社会と人々は、性愛をどうとらえ、現代人とどこが同じで、また違うのか。いろいろ勝手な想像が膨らみます。

 話は変わり、アマテラス大神とツクヨミノ尊の喧嘩。アマテラスは怒って「一日一夜を隔てて住むことにした」。

 ふつう、誰かを遠ざけるときは距離を置く、つまり空間による分断です。「家に入るな」とか「遠島を申しつける」とか。ところが、ここで述べられているのは時間による分断なのです。三次元の認識が揺らぐ、神話ならではのこういう発想が新鮮で、はっとするのはこれまたわたしだけでしょうか。

 それにしても、宗教の神様や仏様と違い、神話の神様は人間臭い!。空間構造も時間の流れもシュールな世界で、権力を争う殺し合いあり、怪物がいるかと思えば、素朴な愛の告白もあり。蛇足ながら、わたしの<読み>の視点は由緒正しい学問的なフィールドから完全に外れていますので、念のため。