「この道より我を生かす道なし この道を歩く 武者小路実篤」
色紙を掛けたのは、無口な職人だった父でした。色紙がいつからあったのか分かりませんが、やがて反抗期・思春期を迎えたわたしは、次第にその色紙に我慢がならなくなりました。
ふつうなら居間に掛かった色紙など、子どもの記憶に残らないでしょう。ところが武者小路に、柔らかい心の土台を逆撫でされるような気持ち悪さが尾を引いたのです。うまく説明できないけれど、不快な言葉だった。ひねくれていたのでしょうか?。だとしたら今も、わたしはかなりひねくれたままです。
改めて考えると、「この道より....」のフレーズは、苦労を経て行き着いた現在への自己肯定で充足しています。
当時のわたしはこれに対して、「悟り切った坊さんじゃあるまいし、どうにも『おめでたい作家』だ」というイメージを持ってしまったのでしょう。安易な=安易に思える=自己肯定が、性に合わなかった。
以来、武者小路は1冊も読んだことがなく、武者小路ら白樺派と呼ばれた作家たち、また「新しき村」の社会運動など、大正から昭和にかけての文学史の一コマは、知識として入ってきても興味がありませんでした。
それが今になって、とある必要から(どんな必要かを書き始めると別稿が立つので割愛)武者小路実篤を読むことになりました。
「愛と死」(新潮文庫)。昭和14(1939)年、作者54歳のときに発表された純愛小説です。タイトルそのまま、文章に裏も表もない、愛と死による別離の物語でした。純粋な文学青年と少女。まるで神話の中の悲劇を、大正時代の日本に舞台を移したよう。
語り手が21年前の出来事を回想する形式なので、歳月を経てからの冷静な振り返りを溶け込ませ、感情に任せた筆の走りを抑制しています。そこはさすがで、だから読み継がれる作品なのですね。
ぎこちなくプラトニックにお互いが想いを育み、いよいよ婚約が整ったとき、作家修行中の青年は、帰国後の結婚を楽しみにパリへ行きます。当時のパリは、世界の芸術文化の中心。しかし彼の心は、日本で待っていてくれる婚約者のことでいっぱいです。
大正時代だから国際電話もメールも、動画付きで会話できるLINEやスカイプなんてありません。何週間もかけて届く国際郵便。繰り返し読み、時間をかけて返信をしたためます。帰国に何十日もかかる客船の中では、寄港地で受け取る手紙か緊急の電報が連絡手段です。
世界のどこであろうと即座につながり、また性に関して混沌とした現代から見ると、100年前の恋愛は懐かしくも遠い神話のよう。そんな現代だからこそ、刺さる人には刺さる恋愛小説だろうと思いました。
当時パンデミックを引き起こして世界で猛威を振るったスペイン風邪(新型インフルエンザ)が、二人を生と死に分けます。そしてわたしは、敬遠していた作家とようやく面会したのでした。
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