読みながら心ざわめき、次の展開が待ち遠しくて、ページをめくる手が止まらなくなる。優れた小説が持つスピード感であり、物語の「力」とも言えます。しかし、どれだけ読者がわくわくしようと、実はもっとわくわくした人物が過去に一人だけいて、それは作者です。
小説は作者が頭の中で組み立て、それを綴った作品。どんなストーリーにし、どんな細部描写で構築するかは小説家次第。作者こそ、小説世界の創造主です。ところが優れた作家は、しばしば異なる実感を語ります。
「物語が勝手に私に書かせた」とか「登場人物が生き始めてしまい、死ぬはずだったのに、作者のわたしは殺せなくなって、彼は最後まで生き切ってしまった」といった具合です。これって
モーツァルトは神が音楽を人に届けるための道具・変換器だった...
みたいな話ですね。
モーツァルト本人ではなく、音楽の神様が、モーツアルトを通して楽譜を書いたーというわけです。これ、小林秀雄のモーツァルト論だった気がしますが、記憶曖昧。それはさておいて、一つの見方としてとても面白い。
小説であれば、作品の創造主は作家本人ではく小説の神様(?)。神様の言葉が降りかかってきて、作家はそれを万人が理解できる作品に変換する。その熱狂と苦悩やいかに。つまり一番最初に啓示を受けた作者が、だれよりも深く「わくわく」したはずです。しんどかっただろうけど。
あー、前振り長すぎ!。
読後につらつら、こんなことを思わせてくれたのが「ワイルド・ソウル」(垣根涼介、新潮文庫)でした。作品の面白さに加え、垣根さんが書きながら囚われたであろう「わくわく」を、つい想像してしまったのです。
序盤の舞台は、1960年代のブラジルです。日本政府の移民募集に応募して南米へ渡った移民たちの悲惨な現実と相次ぐ死。政府の謳い言葉を信じて騙され、生き残った数人が21世紀の日本に帰国します。
政府に対する彼らの復讐劇と、南米移民の悲惨な歴史を現代の世に認識させるための闘いが始まります。
こう紹介するとクラ〜い印象ですが、南米の陽気と残酷、純情に、魅力的な日本のテレビ局の女性ディレクターを絡めて、ノンストップの新潮文庫上下1000ページです。
入りの、作者献呈の辞が秀逸。
2002年の4月から6月にかけて
ブラジルとコロンビアで知り合ったすべての人々へ。
ただし強盗とスリとかっぱらいは除く。
作品を書くため、取材旅行で出会った人たちに捧げています。自分にただ酔ってしまう人に、こんなウイットのある言葉は出てきません。
わくわく書きながら作品との距離感をしっかり取れる、小説の神様に見込まれつつ客観的な視点を失わない、つまりそれが才能というものかと、わたしは思ったのでした。