ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

生きる人間のリアル 驚くべき<真実> 〜「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ

 「小説」と「文学」の違いは何なのでしょう。文学の1ジャンルが小説である、というのは分かりやすい解釈ですが、読者として作品に接する皮膚感覚で言えば、いい小説が必ずしも優れた文学ではありません。つい、おかしなことから書き始めてしまいました。

 「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ、ハヤカワepi文庫)を読んで、わたしの感覚がとらえたのは「久しぶりに文学を読んだ」でした。カズオ・イシグロさんの作品は初読です。

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 生まれ育った施設のこと、施設を出てからの生活や介護人としての仕事。キャシー・Hという女性の日常と内面が、きめ細かく描かれていきます。緻密で冷静な筆致が、一人の人間のリアルを切実に浮かび上がらせていく、成長の<物語>なのです。

 最後は、哀切。

 この抑えて乱れることのない日常についての書きぶりこそが「凄み」なのだと、読み進むうちに気づくことになります。なぜか。

 本当なら、ここで種明かしをしたいところです。作者自身が「本の帯で種明かしをしてあっても構わない」とまで言っているようですが、あえて文庫本の解説から引用します。

 内容をもう少し具体的に述べるのが解説の常道だろう。だがこの作品の場合、それは避けたい。なぜならこの小説は、ごく控え目に言ってもものすごく変わった小説であり、作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。(柴田元幸、英米文学者)

 わたしも同感です。

 作者の、はじめに種明かしされても構わないーは、底の浅いミステリーとは違うという自信の表れだと思いますが、やはり読者の発見していく楽しみは残しておくべきでしょう。そしてもし再読すれば、作品世界を知る今度はやや異なる味わいで迫ってくるに違いありません。

 あくまで一人の女性の半生を描いて、何かを訴えたり、人生に蘊蓄を傾けるような雰囲気は皆無。読む人によっては、途中からミステリーや、社会派のSF小説にも見え始める物語なのです。

 そして、作品から自然に湧き上がってくる「人間とは何か」という問いかけには、「小説」というより「文学」の存在感があります。もとより、この問いかけに決まった答えはなく、一人ひとりが考えることになります。そんな時間を、読後に与えてくれる作品です。

 改めて紹介するまでもなく、カズオ・イシグロさんは2017年にノーベル文学賞を受けたイギリスの作家。長崎生まれで、5歳のとき渡英。日英二つの文化的背景を持つ人です。