ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

辿りつけば 哀しく清々しい愛 〜「存在のすべてを」塩田武士

 ぐいぐい引き込まれていく、ページをめくるのが楽しい。それは小説が持つ大きな力です。「存在のすべてを」(塩田武士、朝日出版社)は、久しぶりに読書の醍醐味を与えてくれました。

 30年前の未解決誘拐事件。銀座の画廊に長く秘蔵される、無名画家による類まれな作品。この二つが結びついたとき、事件にかかわった人たちの人生が輪郭を持ち始めます。塩田さんの徹底した取材と、小説家としての想像力が展開を支え、最後のページを閉じれば哀しくも清々しい。

 

 この小説は中途半端な内容紹介が憚られるので、本の帯から引用します。痒い所に手が届くような、まったく届かないような微妙なキャッチコピーだけど。

 =前代未聞「二児同時誘拐」の真相に至る「虚実」の迷宮!

  真実を追求する記者、現実を描写する画家。

 誘拐事件に対する刑事たちの姿にリアリティーがあります。真実を追いかける、ちょっとくたびれた年配記者もしかり。そして、貧しい画家夫妻。背景にある写実絵画の現状や美術界の権力構造は、きちんと現実を踏まえています。

 登場する人物たちは架空であっても、彼らの周りの現実には小説らしい嘘(フィクション)がほとんど入り込んでいない。日本を代表する美術団体の驚くような裏の顔など、かつて一時は新聞社の文化部記者だった自分の経験に即して、頷けることばかりでした。

 末尾に付された取材協力者と参考文献のリストを見れば、幅広い取材ぶりがうかがえます。細部を、作家の身勝手な想像力に頼っておろそかにしない姿勢が、各所の臨場感に結びついているのでしょう。記者、刑事、画家など専門的な世界の実情について、どうせ一般の人は知らないのだから...という書き手の甘さを、極力排除してあります。

 だから架空の登場人物たちの生き様が、鮮やかに胸に落ちる。登場人物「たち」と書きましたが、一人の主人公が中心ではなく、写実絵画を軸に、未解決事件の謎にかかわる人間群像の物語です。

 たんねんに細部を描き積み上げていく写実絵画の手法のように、少しづつ空白の謎が事実に置き換えられ、立ち現れてくるのは愛の姿。なんだか謎かけみたいな一文になってしまい、申し訳ありません。

 

 画廊に秘蔵される作品群。そして、SNSで話題になった若い画家の作品。どれも読むほど「実物を見たい」と思いました。もちろん、小説の中にしか存在しない作品なんですが。もしかすると、モデルは北海道の風景を雄大に描いた写実画家・野田弘志さんの作品かも。取材協力者リストにも野田さんあったし。いえ、一読者の勝手な推測です。

 塩田さんは元神戸新聞記者で、若くして小説家に転じました。かつてわたしは「罪の声」を読んでいたく感服し、以来新作を気にかけてきました。読者というのは気ままだから、一作目が面白くても、続けて読む作家は思いのほか少ないものです。

             

 

存在のすべてを

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