ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

浮世絵の男とゴッホ 〜「たゆたえども沈まず」原田マハ

 日本人は印象派の画家たちが大好きです。モネの「睡蓮」、ルノアールが描いた少女や女性たち、ドガの踊り子、ゴッホの「ひまわり」や「星月夜」...。(厳密には、ゴッホは「ポスト印象派」とされています)

 もし私が美術館の学芸員・キュレーターで、上司から「理屈抜きに人を呼べる企画展をやれ!。費用は青天井でいい」と命令されたら、真っ先に思い浮かべるのはフェルメール展か印象派展でしょう。あるいはルーブル美術館から「モナリザ」を引っぱってこれないか夢想したり。ターゲットは、元気な女性たち。

 「たゆたえども沈まず」(原田マハ、幻冬舎)のカバーに使われている絵は、ゴッホの「星月夜」です。小説の主人公は、フィンセント・ファン・ゴッホ。ガラス細工のような壊れやすい感受性を持ち、生涯弟に養ってもらい、画家として認められることなく自殺したオランダ人。耳切り事件を始め、なんともドラマチックな人生と絵画作品が重なります。

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 そしてもし私が美術館の学芸員...ではなく、美術物を得意とする作家であったなら、多くの人に入場してもらう...ではなく読んでもらうために、人気画家の一人、ゴッホを取り上げて芸術家の苦悩を描くのは王道です。でもそれだけでは、内心ちょっとつまらない。

 誰でも思いつくことだから。

 原田さんはもう一人、陰の主人公を配しました。それがパリに店を構えた日本人の美術商・林忠正なのです。原田さんがこの作品に注いだ思いは、ゴッホと同じほど忠正に、いやもしかするとゴッホ以上に、陰の忠正にあるのかもしれません。

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 印象主義は19世紀後半に起きた、パリの美術界を支配するアカデミーの画家たちと既存の価値観に対する、若い世代の革新運動でした。そこに日本の浮世絵が深い影響を与えたことは、よく知られています。

 江戸から明治期の日本で、浮世絵は庶民の気軽な娯楽品であり、美術品と見なされていませんでした。同じころパリでは、後に印象派の大家となる貧乏画家たちが、浮世絵に心酔していたのです。

 彼らは、浮世絵の陰影のない色の配置、独特の遠近法や構図に驚き、やがてそれぞれの流儀で消化して作品に反映させていきます。現代の鑑賞者が気づくか気づかないか、それを意識するかどうかは別として、印象派の絵画の多くに浮世絵のDNAが潜んでいるのです。

 当時、美術商としてパリに店を構え、大量の浮世絵を欧州に供給したのは林忠正でした。東京開成学校(後の東大)を卒業間近に中退し、明治11(1878)年に24歳でフランスへ渡った逸材です。

 忠正は美術品を売るだけでなく、雑誌に寄稿して見事なフランス語で日本文化を紹介し、画家やパリの文人たちと親交を結んで彼らの創作や日本文化研究を支援しました。

 忠正が日本文化について原稿を書き、全体編集し、明治19(1886)年に刊行された「パリ・イリュストレ・ル・ジャポン」という雑誌があります。その表紙に、忠正は英泉の浮世絵「雲龍打ち掛けの花魁図」を使いました。

 この浮世絵を模写したゴッホの絵が、アムステルダムのゴッホ美術館にあります。

f:id:ap14jt56:20220320201819j:plain  「海を渡る浮世絵」から

 

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「パリ・イリュストレ・ル・ジャポン」1886年5月号の表紙。林忠正が全文を仏文で執筆、編集レイアウトした日本特集号
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 「たゆたえども沈まず」の中で、忠正はゴッホに助言を与え、晩年の傑作群を残すための重要なファクターとして描かれています。

 ただし美術史上、この二人が親しく交わったという記録はありません。あくまで原田さんの想像力が生み出した小説の世界です。緊張感を持ったゴッホと忠正の関係は、さまざまな傍証を基にした「そうであったかもしれない世界」、原田さんの魅力的な<仮説>でもあります。

 さて

 「海を渡る浮世絵」(定塚武敏、1981年美術公論社、絶版)という本に、江戸から明治という時代を生きた二人の文化人を対比した、こんな文章があります。

 岡倉天心の名声は太陽のように輝いている。(中略)だが、林忠正の名は知られることなく陰に沈んでしまっている。

 なぜ、林忠正は歴史に埋もれてしまったのか。

 それは忠正が、明治政府と関わりのない民間人だったこともあるでしょう。さらに後年、彼は「国賊」として根拠のない非難に晒されたことが影響しています。

 原田さんは「たゆたえども沈まず」で、忠正自らにこう語らせています。

 自分で価値を見出すことはせず、むしろ他人が価値を認めたものを容認する。それが日本人の特性だ。(中略)

 忠正は静かに言った。悟り得た表情で。

 「ついこのまえまでは、日本人にとって浮世絵は茶碗を包む紙に過ぎなかったのです。それがどうだ、パリで認められたとわかったとたん、彼らは私を責めるようになった。ーーー日本の貴重な美術品を海外で売りさばく、お前は....『国賊』だと」

 

 そもそも美術作品の国籍とは何なのでしょうか。人と同じではありません。もし忠正がいなければ、多くの浮世絵が最良の保存状態で世界各地の美術館に収蔵され、現代に残ることもなかったでしよう。

 また、例えば東京のSOMPO美術館にはゴッホの「ひまわり」があり、国内のさまざまな美術館に西洋絵画の名作が数々あります。日本にいながらこうした作品に接することができるのは、とてもラッキーです。まさかオランダやフランスで、作品の海外流出を招いた誰かを『国賊』呼ばわりはしていないと思うのですが...。

            

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