ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

死ぬこと生きること 〜「天地」チンギス紀17、北方謙三

 8月初めに義父が逝って、喪主を務めました。93歳。若いころから交友関係が広かった人で、通夜と葬儀に100人を超える参列をいただき、息を引き取るまでの義父の人生について簡潔に話すことで、お礼のあいさつとしました。

 わたしは11年前に実父をがんで失っていて、喪主として故人を見送ったのは2回目でした。自己にとって、たとえ肉親であっても他者の死とは「いた人が、いなくなる」という、単純な事実です。これが遺された人それぞれに、極めて深く、また浅く、疵を刻みます。

 そして棺の中で花に囲まれた、無表情な顔を見ると、故人との思い出とともに、自分もまたこの世から消える日が必ずやってくるのだと沁みてきます。それは悲しみなのか、救いでもあるのか。確かなのは、人はなかなか死に親しむことはできないということでしょう。

 子供のころ、わたしをかわいがってくれた叔母がいました。やや歳が離れた母の妹です。母が里帰りすると、幼いわたしは叔母の布団に潜り込んで寝たものです。叔母はその後、20代の終わりにスキルス胃がんと診断され、1年を経ずに病死しました。

 16歳になっていたわたしは、壮絶な闘病と死を垣間見ました。咲き誇る花束のようだった叔母が、転げ落ちるように死へ向かった姿は、わたしの中で恐怖に彩られたトラウマになりました。

 例えば長い間、病院の、特に病棟へ足を踏み入れることができなくなりました。親しい人が簡単な手術で入院しても、見舞いに行く勇気がありませんでした。皮膚感覚が拒否するのです。

 新聞記者になり、がんの終末期医療を繰り返しテーマにしたのは、実はこのトラウマを克服するためでした。医療現場やホスピスに足を運び、遺族からも繰り返し話を聞き、悲しみや嘆き、虚しい希望が詰まったおびただしい言葉と現場知識だけは、わたしの中に蓄積していきました。死に瀕した暗闇に、なんとか光を探したかったのです。

 こうした取材はトラウマを抱えた自分にとって、心の平衡を壊しかねない綱渡りに満ちていたのですが、今ふり返れば、のめり込むしか道はなかった。

 結局、終末期医療に関する長期連載を、10数年の間隔をおいて2回やりました。2回目の連載時はわたしをキャップに取材チームを組み、ヨーロッパとアメリカのホスピスへも若い記者を派遣しました。連載はファイザー医学記事賞に選ばれ、終了後は本になりました。しかし。

 今もわたしはあのトラウマを克服できていません。「死」との付き合い方を、長い時間をかけて少し学んだ程度だと思います。

 北方謙三さんの大長編「チンギス紀」が、第17巻の「天地」(集英社)で完結しました。12世紀に大帝国を築いたチンギス・カンの一生を描いた歴史小説です。2018年に最初の1冊が刊行されて以来、新刊が出ると読み継いできました。

 北方さんの小説には、多くの登場人物たちの印象的な死が描かれます。心に残るのは、彼らの生き様が鮮やかだからです。生きている、だから死が訪れる。当たり前だけれど。

 ついに主人公チンギスの、死の短い描写で大長編は幕を閉じました。

 願わくは...と、わたしは思います。西行が望んだような、花の下でも、春でもなくていい。ただ「生き切った..」と、心につぶやいたとき、懐かしい友人のようにやってくるのが死であってほしい。北方さんの小説に登場し、死んでいった何人もの男や女たちのように。

 

               

 → Amazon チンギス紀最終巻「天地」にリンク

   シリーズ第一巻「火眼」にリンク