1940年代から50年代のフランスを代表する作家の一人に、アルベール・カミュがいます。無名の文学青年を、一躍時代の寵児にしたデビュー作が、1942年に出版された「異邦人」(新潮文庫)でした。
80年前の小説ですから、すでに<古典>の仲間入りか。主人公のムルソーは、普通の、少なくとも、つつがなく社会生活を営むことができる勤め人です。一方で、文庫本カバーの要約から拝借すれば、「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ」...。
さらに友人と情婦の間のいざこざに関わり、ムルソーはアラビア人の男を射殺します。1発目で倒した後、身動きしなくなった体にさらに4発。ふつう2発目以降は、激しい怨恨と殺意がなければ撃ちません。しかしムルソーにとってそのアラビア人は、よく知りもせず、特別な恨みもない相手でした。
後に法廷で、死に瀕した、もしくは既に死体であった男へ、さらに4発撃ち込んだ殺人の動機を問われたとき、彼は自らの中に明確な答えを見い出すことができません。自分の滑稽さを意識しつつ、彼はあの言葉(この小説について述べるときによく引用される)を発します。
それは太陽のせいだ
作品は文庫で160ページもない2部構成の中編。第1部は、母の死の知らせから始まり、太陽の下で銃声が響くまでのムルソーの行動の記述です。淡々としていて、小説としての面白みに欠けるほど。
第2部は、死刑宣告までの法廷が舞台。ここで判事、検察官、弁護士、司祭が第1部におけるムルソーの行動と心に迫ろうとします。いわば、健全な人間社会を構成する正義、道徳、宗教の専門家たちなのですが、ことごとくムルソーの内面と交わることはできません。
ムルソーにとっては、法廷で検察官や弁護士が語るのはすべて自分のことなのに、被告席にいる自分が置き去りにされていると感じます。彼らが語る言葉に自分はいない。社会通念の上に立っていくら言葉を積み上げても、通念の外にいるムルソーのような人間には、決して迫ることができないのです。
法廷がムルソーに死刑を宣告したのは、殺人という罪によってではなく、ムルソーという存在がこの社会に生き続けること自体を、許せなかったからなのです。
<不条理>
カミュについて語るとき、必ず使われると言っていい概念です。
人間は、分かりやすい言葉で物事を論理的に整理し、把握したいという欲求を持っています。あらゆる学問というものの出発点も、この情動だと思います。ところが世界は、どれだけ文化、文明が進んでも、論理的な範疇に収まらないものが併存します。世界もわれわれ人間も、条理と不条理で成り立っているのです。その現実を受け入れることが必要で、ムルソーはいわば、擬人化された不条理の現れなのではないでしょうか。
不条理という言葉は、当時の文学と哲学の流行語でもありました。わたしが好きなベケットやイヨネスコの戯曲は、「不条理劇」という名称で呼ばれました。
実存主義哲学の大御所・サルトルに「嘔吐」という小説があります。あの小説の中で、暗闇で手のひらを押し返してくるドアノブの生々しい感触は、日常の裂け目から不意に顔を出した不条理そのものです。
初期の大江健三郎さんの小説にもそんな色合いがあるし、やや苦しいけれど、最近なら中村文則さんかな。不条理という言葉が思い浮かぶのです。
...あれ。なんだか、小難しいことになってしまった。主観と個人的解釈による文章なので、あまり突っ込まないで、読み流してください^^;。
わたしの住む地ではいよいよ初雪を観測しました。明朝目覚めると、うっすら積もっているかもしれません。