少し前のことになりますが、アカデミー賞を獲得して話題になった映画「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督、西島秀俊主演)を観に行ったのは、4月下旬の大型連休前の平日でした。話題の映画だったにもかかわらず空席が目立ったのは新型コロナのせいか、2時間59分という上映時間のせいか。
映画「ドライブ・マイ・カー」公式サイトから
原作は村上春樹さんの短編集「女のいない男たち」(2014年、文藝春秋)に収めてある小説で、わたしはこの本を読んでいません。だからどこまで原作に忠実なのか分かりません。短編を約3時間の長編映像にしたからには、かなりの改変があるはず。
監督や脚本家の個性が加わっているのは当然で、小説と映像のコラボ、かつ映画は映画として純粋に楽しめばいいと思っていました。
ところが観てみるとどこを取り上げても、漂ってくるのは村上春樹ワールド。これ、監督も脚本家も一緒になって<村上春樹的世界>に乗っかり、映像というメディアでその世界をリメイクした映画ですね。
たぶん原作にない要素がたくさん盛り込まれていて、監督や脚本家の追加、改変は多いと推測するけれど、やはりどこもかしこも<村上春樹的世界>というのがわたしの印象でした。
ハルキ小説の世界あるいは空気感は、脚本家であれ監督であれ、また一読者であれ、とても「乗っかりやすい」プラットホームなのです。村上春樹さんを世界的な人気作家にしたのもその特質にあります。
村上さんの初期作品で使われ、今もわたしの心に残る二つの台詞があります。
「はあ」そして「やれやれ」。
例えばあなたが、愛する人と知らないだれかが一緒にベッドにいるところを見てしまったとします。これまで、愛する人もまた自分を愛してくれていると疑うことなく信じていた。ところが彼女(または彼)は、知らないだれかとベッドでもつれ、声を上げている。
見たその場で激昂する人がいる。あるいは、そっと目の前の現実から立ち去る人もいるはずです。後者だったら、自分を救うために、一番最後に残された言葉は何でしょうか。村上さんが用意したのは
「はあ」であり「やれやれ」でした。
現実からの逃避、あるいは別の現実へのシフト。そもそも、目の前の現実とは何なのか。右往左往する自分を見つめる覚めた自分に移行することで、自己を守るための言葉が、この二つです。
なんでもない二つの言葉に、そんな役割を与えてデビューしたのが村上さんであり、作品の新しさでした。
そもそも文学は、「はあ」や「やれやれ」で現実に蓋をすることを拒否し、拒否と引き換えにおびただしい言葉とエネルギーを費やして、生きることの真実に迫ろうとしてきました。
伝統的な文学のあり方を若くしてちゃぶ台返しした村上さんも、デビュー後は「はあ」と「やれやれ」に終わらず、二つの言葉の奥へと踏み入ることで小説を構築しました。
小説家・村上さんのその後の試みの道筋は二方向あって、一つは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が代表し、もう一方を代表するのがベストセラー「ノルウエイの森」だと思います。
どちらも、私は好きな作品です。
しかし、この二つの方向で先に進めなくなったとき、書かれたのがオウム真理教による地下鉄サリン事件の証言集・ノンフィクションである「アンダーグラウンド」(1997年、講談社)です。
これは小説という虚構の構築に限界を感じた村上さんの、一時的なリアル回帰だったと思います。虚構の世界と、テロによる凄絶な生と死という現実のバランスを、自分の中でどう釣り合わせるのか。そんな危機感を持って書かれた作品だったから、ノンフィクションライターによるレポートとは一味違う凄みがありました。
当時、報道の最前線にいたわたしにとっては、衝撃的な作品でもありました。そして苛立ちも感じたのです。プロのノンフィクションライターたちは何をやっているのか。アマチュア(ノンフィクションにおいて)の小説家に圧倒されていいのか、と。
この作品以降、村上さんは再び物語の世界に回帰するのですが、わたしはこのころから村上さんの熱心な読者ではなくなりました。「1Q84」も読みましたが、面白いけれど、もうわたしのわがままな期待を超えてはくれない。だから「女のいない男たち」も、書店で見たけれど買わないままだったのです。
さて、映画「ドライブ・マイ・カー」。冒頭は、夫婦のエッチのシーンで始まります。妻の背中が美しい。後日、夫は妻の不倫を目撃します。激昂することなく、静かにその場を立ち去る夫。妻が急死したあとの彼の心の葛藤と救いが、映画の骨格です。
わたしは映画の良し悪しを述べるほどの鑑賞者ではありませんが、もしあなたが村上春樹ファンなら、それなりに楽しめる3時間だと思います。