ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

切なくて重い、人というもの 〜「ある男」平野啓一郎

 単行本が文庫版になって刊行されると、たいていは巻末に批評家や同業者による「解説」が付きます。ところが「ある男」(平野啓一郎、文春文庫)には解説文がない。むむ、これは...。

 わたしは結構「解説」を読んで、その本を買うか買わないか決めるのですか、ちょっと迷ってからレジへ持って行ったのは「解説がないのが気になった」からです。決して本の帯にある「愛にとって過去とは何か?」などという、若干クサいコピーに惹かれたわけではありません。(たぶんw)

 「愛にとって過去とは何か」を問うことは、「人とは何か」という根本の問いに重なっています。作品は差別問題、言論の右傾化など極めて現代的な社会現象をからめたミステリー仕立てになっていて、重いテーマがいくつも詰まっています。

 宮崎県の小さな市。寂れた商店街の1軒の文房具店の話から、物語は始まります。店を継いでいるのは、子を失い、離婚して故郷に戻った女性。ある時から、狭い地域社会の中で見たことのない男が、定期的にスケッチブックと絵の具を買いに訪れます。

 暗い過去を封印した二人は、やがて親しくなり、結婚して娘が誕生。ようやく幸せをつかみますが....数年で終わります。男が労災で事故死してしまうのです。連絡を受けて訪ねてきた男の兄。仏壇に置かれた弟の写真を見て唖然とし、言います。

 これは、弟じゃないですよ...。

 本の帯から引用すれば「愛したはずの夫は まったくの別人だったー」。

 例えば犯罪者の子供、在日三世など、人は自らの責任が及ばない事実を理由として、生涯逃げることができない、過酷な環境に投げ込まれることがあります。社会の不条理そのものもですが、不条理に対して正論を述べ立てても、しばしばより過酷な場に追い詰められるのが現実かもしれません。

 そんな現実を生き、事故死した男とはいったい何者だったのか。

 過去を追い、見えてくる光景がストーリーの背骨になります。映画化されて2022年に公開されるようですが、なるほど作品は人にとっての幸せ(愛)と不幸(地獄)、そして社会のあり方が問題提起されてせめぎ合い、監督の腕次第で面白い映画になりそう。

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 男の正体を追う過程が背骨だとすれば、在日3世の弁護士の苦悩や、死別された母子の悲しみが血肉になって、ストーリーに立体感を与えています。

 ただし、読み始めるとかなり思弁的な記述が目立つので、ご注意を。平野さんのエクリチュール・文体については「マチネの終わりに」のレビューでも書きましたが、なかなか軽く読み流せないかもしれません。

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 さて、ここからは蛇足です。作品に影響されて(?)少々小難しくなるのはご容赦ください。許せない方は、以下の戯言をスルーしていただいでなんら問題なし!。

 この物語は三人称で書かれています。つまり彼はこう考えた、彼女はそう思った、Aは走った、Bは...という具合。物語を操るのは、表に出てこない作者の<私>。

 ところが、本編の前に短いエピソードの『序』があって、ここだけは語り手である平野さんが<私>として登場します。つまり一人称で書かれています。

 飲み屋のカウンターを舞台にしたこの『序』は、導入の話としてなかなか面白いだけでなく、ある宣言・仕掛けが隠されています。

 以下に始まるの三人称の物語は、全部<私>の主観が描き出す虚構の世界ですよーという宣告。細部に至るまで創造主である<私>の視点なんですよーと、当たり前のことをわざわざ伝えているのがこの『序』です。

 実は巧妙な仕掛けだと、気づきにくいかもしれません。

 なぜこんな『序』が必要かと言えば、物語のストーリー・骨格を覆っている血肉が、極めて思弁的な記述でできているからです。

 無作為にページを開いて引用すれば

 国家は、この一人の国民の人生の不幸に対して、不作為だった。にも拘らず、国家が、その法秩序からの逸脱を理由に、彼を死刑によって排除し、宛(さなが)らに、現実があるべき姿をしているかのように取り澄ます態度を、城戸は間違っていると思っていた。立法と行政の失敗を、司法が、逸脱者の存在自体をなかったことにすることで帳消しにする、というのは、欺瞞以外の何者でもなかった。

 真相を追う弁護士・城戸の思考ですが、厳密に言えば(『序』に宣言してある通り)、城戸はこう考えたのだろうという<私>の語り、<私>が城戸という人物を解釈した結果による記述です。

 この小説をあなたが読んで、もし中身についていけないところや退屈する部分があっても、<私>にとってこれは切実で書かざるを得なかったことなのですーという、前段の言い訳が『序』に隠されています。そして同時に、これから<私>の文章の力技にあなたを引き込んでみせよう、という作家としての自負も感じます。

 

 登場人物にどこか体温が感じられない、操り人形のような感触があるとすれば、それもここに起因しています。登場人物それぞれの思考、感じたことが実に緻密に描かれるのですが、一人ひとりは別人格であるにもかかわらず、誰にも等しく語り手である<私>の指紋、同じ思考パターンが透けて見えてしまうのです。

 ざっくり言えば、こんな思弁的な掘り下げ(しかもときにストーリーと関係のないベクトルに向かうそれ)は、単にミステリーを楽しみたい読者なら邪魔だと思います。同時に、別の人にとってはこれが魅力で、平野さんの作品に文学としての深みを読み取るのでしょう。

 さて、疲れた1日を過ごした夜、飲みながら書いているので、もう頭が空回りを始めました。ここまでお読みいただいた奇特な方は、どうか読み捨ててください。

 あとはもう一杯、安い焼酎ロックをお代わりするのみ...。