映画も公開される恋愛小説のロングセラー。野暮な批評なんて、どーでもいい雰囲気なのが「マチネの終わりに」(平野啓一郎、文春文庫)です。そもそも優れた恋愛小説ほど、読んで楽しめばいいのであって、その先は何も必要ないのかも。だから、終わり。
という思いに、させられた作品でした。同時に、読みながら作家としての手練手管に感心したり、ちょっと首を傾げたり。どうせなら、野暮なことでも書いてみるかな。
天才クラシックギタリストと、女性国際ジャーナリストの一途な愛の物語です。舞台は東京、パリ、ニューヨク、戦乱のイラク。テロや民族問題が絡み、2人の繋がりはメールにスカイプと、どこをとっても極めて現代的でありながら、作品の骨格はシェークスピアのような「古典的な悲劇」です。
恋に落ちる蒔野(まきの)と洋子。2人の悲劇を作り出すキーパーソン、そして脇役たちが、役割通りに演じる隙のなさは、小説でありながら上質な古典劇を観ているような味わいでした。
さて、戦争を映像美に定着させたある映画シーンについて。2人は、お洒落だけど小難しい、こんな会話をします。
「美って言うのは、そういう厄介な仕事をずっと担わされてきて、もうくたびれ果ててるんじゃないかと思うことがある。」(中略)
「やっぱり、ロマン主義以降かしらね、美にあまりに多くの期待が伸しかかるようになったのは。美しくないものまで、随分と面倒を看てきたから」
会話の意味を推し量るには、ロマン主義以降のヨーロッパにおける芸術思潮の流れをある程度理解していることが前提になります。「美しくないものまで、随分と面倒を看てきたから」というくだりに、なるほどと苦笑いできる人はどれくらいでしょうか。読者に知識の前提を求める記述は他にもたくさん出てきて、楽しいと思うか、衒学的だと感じるかは微妙で人によると思います。
もう一つの特徴は、アフォリズム(格言のような文章)の多用です。例えば、洋子との関係に幸せ絶頂の蒔野の描写。
幸福とは、日々経験されるこの世界の表面に、それについて語るべき相手の顔が、くっきりと示されることだった。
恋の幸福についての気の利いた定義ですが、ごく普通に蒔野の心を言い換えればこうなります。
蒔野は今見ている空について、樹について、見慣れたコーヒーカップについてさえ、洋子に語りたいと心の底から思った。蒔野は幸せだった。
平野さんにツッコミを入れるつもりはありません。これが「平野さんの世界」だということです。心の動きは分析と認識の言葉に置き換えられ、作品の記述は徹頭徹尾、明晰。
「明晰さとは太陽にもっとも近い傷だ。」
作中、この言葉に出合った蒔野は、自らの芸術観を貫かれて立ち止まります。明晰であることの凄さと、明晰でありすぎるために失っているもの。これは平野さんの、作家としての自己認識でもあるのかな、と思いました。平野さんの個性と極めて近しい大先輩を、わたしは思い出します。すでに何人かの人が指摘していたはずですが、三島由紀夫です。
「マチネの終わりに」は、意味深な「序」から始まります。個人的な感触で言えば、これは98%フィクションで、(ブーイングは覚悟の上で言えば)作家としての手練手管です。そして終わり方は、見事さに感嘆しました。この先がどうなるか、書かれていないエピローグを想像するのは、読者一人一人に委ねられています。