ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

私的ノンフィクションのすすめ

 「事実は小説より奇なり」

 という、使い古された言葉があります。わたしにとって、これには二通りの解釈があります。

 1つ目。小説家がどんなに派手に想像力を働かせても、現実に起きる展開には及びません。地震、原発、スーパー台風、テロなどを描いた小説はあっても(高島哲夫さんとか)、地震、津波に原発事故までを1セットにした作品はありませんでした。しかし、常識や想像力を超えて、東日本大震災は起きました。

 2つ目。身近に起きることなら、長く連れ添った夫婦の、些細な一言で始まる喧嘩。夫婦喧嘩という小さな出来事の背後には、夫と妻それぞれの内面に蓄積した長い感情の歴史が潜んでいます。

 普段は表に出ない負の連鎖が、何かのきっかけで噴出します。豊かで(?)昏く、深い個人の世界です。これも小説ではとても及ばない。

 小説家の想像力は事実を模倣するけれど、追いつくことは決してありません。わたしがかつてノンフィクションを読み漁ったのは、そんな「事実の深さ」に迫りたいと思ったからでした。

 ここでノンフィクションというのは、単に非・小説ではなく、ジャーナリズムとしての仕事を言います。またこの稿は小説を貶める意図があるわけではなくて、フィクションという表現手法は別の回路で真実に向かうのだと思います。

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 もちろん、事実に向き合った途端に「何が事実か」という果てしのない問いに直面することになります。先ほどの夫婦喧嘩で言えば、夫と妻それぞれに異なる事実あるいは真実(主張、言い分)が存在します。

 われわれの記憶に刻まれるのは得てして、自分のフィルターで取捨選択された事実です。そしてノンフィクションは常に、過去に起きたことを様々な証言や事実を集めて再構築(検証)する作業ですが、採集する証言自体が各人の主観のフィルターを通ったものなのです。

 例えば9・11テロに関して、アメリカとアルカイダにはそれぞれの主張が成り立ちます。ノンフィクションの醍醐味は、ライターが自らの視点を賭けて、おびただしい事実を掘り起こし、事実に対して相反する解釈が成り立つ中で、客観的な作品にまとめる過程にあります。

 9・11に迫った白眉として、「倒壊する巨塔ーアルカイダと『9・11』への道」(ローレンス・ライト、白水社)という作品があります。この世界の広さと複雑さが、あの日あの時間のテロという、たった1点に収斂していく流れに圧倒されます。

 3・11、東日本大震災に関しての仕事もたくさんありますが、これが抜きん出ているといった作品に、わたしはまだ出会っていません。それでも挙げるなら、門田隆将さんの「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(PHP)と「『吉田調書』を読み解く」(同)はしっかりしたレポートです。

 地下鉄サリン事件は、村上春樹さんの「アンダーグラウンド」(講談社)が突出しています。ちょうど村上さんの仕事が、ノンフィクションに傾斜していた一時期でした。なぜ本職のノンフィクションライターがこれを書けなかったのか、歯がゆく思ったことが忘れられません。

 テロや災害、そしていのちに迫る仕事は、ノンフィクションが得意とする分野です。いのちに関してなら、医療分野の作品群が豊かです。柳田邦男さんの「がん回廊の朝」(講談社文庫)などは、古典的な名著でしょう。ほかにも政治、経済、スポーツ、環境破壊など、ライターたちが立ち向かったテーマは多彩です。

 1960年代からのアメリカ・ニュージャーナリズムが生んだ仕事の数々、これに刺激された1970年代以降の日本のノンフィクションは、足を踏み入れれば極めてスリリングな世界が広がっています。

 ところが今の日本には、かつてほどノンフィクション作家の質に厚みがありません。なぜなのか。さみしい気持ちで理由を考えています。

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