ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

のろまで不器用で、泣き虫な<希望> 〜「さぶ」山本周五郎

 江戸・下町の表具店で、一人前の職人を目指して修行する栄二とさぶ。男前で仕事もめきめき腕を上げる栄二に対し、さぶはずんぐりした体型、のろまで不器用、おまけに泣き虫。同い年の二人は、強い友情で結ばれ助け合っています。

 ところが23歳になったある日、栄二は馴染みの仕事先で盗みの罪を着せられ...。

 「さぶ」(山本周五郎、新潮文庫)を読み終えたとき、思い浮かんだのは「パンドラの筺」でした。日本の時代小説とギリシャ神話が、わたしの中で何となく、どこかがつながったというわけです。

  

 よく知られた「パンドラの筺」について、改めて説明するのも憚られますが、自分の復習も兼ねて簡単に書きます。

 神々によって土から作られた最初の人間の女性が、パンドーラーでした。神々は彼女に筺(=箱、元々の神話では壺)を持たせ「決して開けてはいけない」と言い含めて地上へ送り出しました。ところが彼女は、筺を開けてしまいます。

 そして筺からは疾病、悲嘆、暴力、犯罪などありとあらゆる災いが飛び出して地上を覆ってしまったのです。最後に一つだけ、筺に残ったものがありました。それは「希望」でした。

 

 栄二は頭が切れ、真面目で一本気な若者。だからこそ無実の罪を着せられたことに耐え切れず、酒に溺れ、女に逃げ、犯罪者として人足寄場に送られます。過酷な災いが次々と栄二を襲い、心配してくれる友や仲間にも心を閉ざし、ただ復讐を誓うことでだけ自らを支え続けるのです。

 小説の表の主人公は終始、栄二です。世に蔓延る災いと不条理、激しい憎しみが描かれます。しかしそんな栄二を、愚鈍で誠実なさぶは決して見捨てません。

 地獄巡りと再生の物語を描いて、終盤は見事。驚くべき真実の告白と赦しがあり、栄二がずっと待ち続けたさぶが、表の雨戸を叩いて呼びかけるのです。全ての災いが筺から飛び出した後に、やっと現れた希望のように。

 「おらだよ、ここをあけてくんな、さぶだよ」

 

 栄二の物語でありながら、タイトルは「さぶ」。沁みるなあ。

           

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