山の麓にある観音堂に続く道を歩きながら、心の底が抜けたような、静かな開放感に包まれました。梅雨の雨上がり。
家から車で40分ほどの、真言宗の古刹です。地元の写実画家さんの企画展に出かけたついでに、足を伸ばしました。前回この参道を歩いたのは、一昨年だったか。一番初めは、若いころ取材で訪ねたのです。当時から変わることなく、不思議にここだけは空気が濃い気がします。
以来、思い出したように行きたくなる。
帰宅し、明日の朝出稿する仕事の駄文を読み返し、「さて」とページを開いたのは瀬戸内寂聴訳「源氏物語」。ようやく、54帖中の15帖目、「蓬生(よもぎふ)」に入っています。
読み進めながら、相変わらず岩波古典文学体系の原文と詳細な校註(山岸徳平校註=すごいなあ...)及び谷崎源氏が手放せません。
こう書くと、なんだか面倒で苦痛に思われそうですが、違うのです。瀬戸内さんの現代語訳はするする読めて楽しいけれど、それではとんでもない面白さのうわべだけ掬う気がして、もったいない。わたしは面白いものはとことん味わいたい、強欲者なのです。
特急電車(瀬戸内訳の源氏)に乗りながら、線路脇の雑草の花も見つけられるよう、歩くスピードで進む感じ。こうなると、いちいち原文や校註その他を突き合わせる手間が、手間ではなく楽しい読書の一部になります。
平安期における仏教の教え(天台宗や真言宗)が、人の精神にどのように染み込んでいるか、源氏物語の節々から、ありありと浮かび上がってきます。
後に、武士の時代は禅宗が栄え、庶民は浄土真宗その他に傾くわけですが、物語の舞台はそれ以前。なんだか市役所の戸籍係で日本人の心のルーツをたどっているような、わくわく感があります。
また、和歌という文芸の重要性に改めて気づきました。
瀬戸内さんの歌の現代語訳が秀逸で、目からうろこがぼろぼろ。これ、今風に言えば男女の秘めたラインのやりとりですね。
ただし、気の利いた投稿ができないと生き残れない、リアルで熾烈な世界!。いや、大変だあ。さまざまな歌の表現に、当時の思いの託し方、美意識の在りかがうかがえます。
....こんなふうに書き始めるときりがないから、少し具体的な話を。
末摘花という、没落した家の姫君がいます。光源氏としては「その他大勢の愛人の一人」というところ。しかし姫君は、生きていくために光源氏からの援助だけが頼り。瀬戸内訳「蓬生」から引用します。
全く取るに足りないほどの、わずかな援助に過ぎないと、源氏の君はお思いでしたが、それを待ち受けになる方(末摘花)の貧しいお暮らしでは、大空のおびただしい星影を盥の僅かな水に映してわが物にしたような、身に余る思いで感謝なさり..
太字部分、岩波版の原文はこうです。
おほ空の星の光を、たらひの水に寫(うつ)したる心地して
現代語訳もさすがですが、紫式部の比喩表現に驚きました。
平安時代の宮廷の一室。だれもそこまで歩いたことのない散文という未開の地に、足跡を記して進む一人の女性の、書くことの苦しさと喜びが混ざった息遣いを、感じてしまうのです。こんな表現が、たくさん散りばめられている。
紫式部は現代で言えば、小説の大家。過去になかった壮大な物語世界を切り拓く、千年前に現れた開拓者だったのだと実感します。
さて「源氏物語」、のんびり年内に読み終えようと考えていたのですが、このペースだと年を越しそうだなあ。
あ、そういえば登場する女性があまりにも多い!。系図がいろいろあり、おまけに恐るべきストーリーテラーの紫式部は、ずっと後になって本人や娘をさらりと再登場させるので、わたしの頭ではすでに把握が辛くなっています。
で、ヘルプ本を110円で落札しました^^;。
早く届いてくれー。
*************
*「鏡花水月」 という漢詩由来の熟語があります。紫式部はこの慣用句をベースにしてこの部分、独自の比喩を考え、文章に織り込んだのかも...。などと、つい細かいことに思いをめぐらせていると、なかなか先に読み進めませんw