ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

だれにも届かない声 〜「52ヘルツのクジラたち」町田そのこ

 <52ヘルツのクジラ>とは何か。普通のクジラの鳴き声は10ー39ヘルツの周波数。ところが52ヘルツで鳴くクジラがいて、世界で一番孤独だと言われているそうです。仲間のクジラに、その声は高すぎて聞こえないから。

 2021年本屋大賞の第1位になった「52ヘルツのクジラたち」(町田そのこ、中央公論新社)には、本文中でそんな説明があります。インタビュー記事によると、町田さんは別の作品で海洋生物学について調べているときに存在を知り、あたためていたイメージだったとか。

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 一見、奇妙なタイトルですが、意味を知れば作品を見事に表していると分かります。児童虐待を経験した主人公の女性。偶然彼女と出会う男の子は、現在進行形で虐待を受けています。重要な役割を果たす、トランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)の男性。52ヘルツのクジラたちなのです。

 彼らは密かに、理不尽で残酷な仕打ちに心を潰されながら、誰にも届かない声を発し続けています。特に男の子は、虐待による精神的な傷が原因になって、声を失いました。作品のテーマを、分かりやすく象徴しています。

 本屋大賞は、どちらかと言えば<物語系>の作品を評価してきた経緯があって、それが魅力でもあります。「52ヘルツのクジラ」もまた、小説というより<物語>として受け止めるべきなのでしょう。

 ただし文学作品として見たとき、<物語>にはプラスとマイナスがあります。

 プラスは「読みやすさ」「面白さ」。これをひっくり返せば、「軽い」ということにもなります。

 物語の基本構造は、いい人はどこまで行っても「いい人」で、悪い人は最後まで「悪い人」。どちらに分類するか困るような人は、あまり出てきません。時と場合によって、人は鬼にも仏にもなる....みたいな人間の在り方の実相に関わってしまうと、何しろ物語は気持ちよく進まないし。

 この明確な役割分担で描き分けてあるから、読者はハラハラどきどきしながらも、安心して楽しめるわけです。

 そして「52ヘルツのクジラ」。勧善懲悪に傾きやすい<物語>的な作品を、虐待や性的マイノリティーなどの現代的な問題を土台にして積み上げてあるところに、やや危惧と物足りなさを感じました。

 例えば、トランスジェンダーの彼(実は女性)。確かに悲劇的で、後半に重要な役割を担うけれど、あの告発行為(具体的には作品をお読みください^^;)を含めて、あまりにも美化されていないだろうか。そう考え始めると、ツッコミどころが多々見えてしまうのです。

 こんな意地悪な読み方をするのは、わたしがかなり古傷だらけの、擦れた読者だからかもしれません。

 「52ヘルツのクジラ」は、昔々、あるところに....が取れた、現代の<物語>。

 賞に相応しくない、と言うつもりは少しもありません。ある意味、とても本屋大賞的。さりげなくも印象的な出来事から読者を引き込む導入部、苦難の果てに希望を提示する終末までの話の展開は見事です。

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 実はこの本、まだ読むつもりはありませんでした。本屋大賞に決まった翌日、書店に行くと平積みになっていて、もう「本屋大賞第1位」の帯がかけてあるではありませんか!。なんと。たかが本の帯といえど、デザインを決めて印刷会社に発注、全国の書店に配るまでを1日以内にできるはずがありません。

 出版社が廃棄覚悟で、事前に準備して配り終えていた?。受賞にそれほど自信があった?

 なんだか狐につままれたようで、つい買ってしまったのでした。出版社の戦略に見事に乗せられたような....。

              

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