ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

ヒマワリの悲しい秘密 〜「盤上の向日葵」柚月裕子

 前半を読んだ段階では、「盤上の向日葵」(柚月裕子、中央公論新社)をブログに書くかどうか迷いました。わたしの中でプラスよりもマイナスが上回る作品については、書かないことにしています。

 何度か中断しながら読み続けるうち、後半から面白くなって、最後まで読まされてしまいました。小説としての力は、やはり確かなものがあって無視できません。

 クッキーは好きだけど、苦手なレーズンが混ざっていて、食べれば好きと嫌いがブレンドされた複雑な味わい。でも、やっぱり美味しいかな...。みたいな感じでした。

 柚月さん、勝手なこと言って申し訳ありません!。

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 日本中が注目する将棋の竜昇戦7番勝負は、天才棋士・壬生と、挑戦者・上条が3勝3敗で、いよいよ最後の第7戦。熱気あふれる対局会場のホテルへ、2人の刑事がやってくることで小説の幕が開きます。

 作品の縦糸は2本。

 1本は、虐待を受けて育つ将棋好きの男の子が、親を捨て、苦学生として東大を卒業し、IT企業を立ち上げて成功したのち、事業を捨てて棋士に転向する物語です。彼には将棋の天才的な資質が備わっていて、その頂点の戦いが今回の竜昇戦挑戦でした。

 もう1本の縦糸は、死体遺棄事件。山中に埋められていた男の死体が発見され、捜査が始まります。この事件の特異な点は、白骨化した死体に持たせるように、時価数百万円という高価な将棋の駒が埋められていたこと。捜査が進むにつれて...。

 物語は時系列を前後しながら、この2本の縦糸が絡んで進行します。

 お金を賭ける裏の棋士たちの鬼気迫る対局、表の世界の頂点である竜昇戦など、読んでいて引き込まれます。盤上の攻防は「〓5三歩」などの棋譜で再現されるのですが、わたしは素人なので、ちんぷんかんぷん。しかし、命をやりとりするような真剣勝負の感じは伝わってきて、頭の中で盤上を再現できなくても大丈夫だと思います。

 タイトルの向日葵(ひまわり)に関連する悲しい秘密も終わりに用意されていて、読ませどころの一つになっています。うん、なかなか面白い!

    *****

 個人的につまづくのは、もう1本のストーリーである捜査の展開。帳場、鑑取り、地取りその他、警察のギョーカイ用語や役職、構成はしっかり固めて書いてあるのですが、描かれた帳場(捜査本部)の空気感や、刑事の細かい行動に馴染めません。

 例えば、2人の刑事が某新聞社を訪ね、将棋担当記者に協力を仰ぐ場面があります。そこで多少逡巡しながらも、高価な将棋の駒が一緒に埋葬されていた事実を記者に明かしてしまう。

 「あー、これ、ありえん!」

 残念ながら前後の記述に、機密を明かすだけの必然性、説得力はない。熱くなりかけたわたしの心に、突然、氷の塊を投げ込まれた気分になります。情報漏洩はもちろんありますが、この場合はいちげんさんに近い記者に対して、しかも最高級の捜査機密なのに。

 なぜこれが機密なのか。将来、容疑者(*注↓)を逮捕した時、警察は取り調べで自供を引き出そうとします。容疑者が「死体と一緒に、◉◉の高価な将棋の駒を埋めた」と話せば、それは<犯人しか知り得ないこと>です。

 現場状況が秘匿されている限り、捜査関係者以外で、将棋の駒の埋葬を知るのは犯人しかいないからです。これは容疑者が犯人に間違いないことの、重要な証拠。もし容疑者が裁判で否認に転じて無罪を主張しても、有罪を勝ち取る切り札になります。

 ところが、将棋の駒の件が、逮捕前に一般に知れ渡ってしまった事実であれば、自供は証拠能力を持ちません。もうだれでも知っている事実で、<犯人しか知り得ないこと>ではありません。

 捜査上の機密はこうして生まれ、外部に対して徹底的に秘匿されます。この小説に出てくる刑事たちは、他の部分でも<情報>に対する対処や反応が、なんともアマチュアっぽくて、首をかしげてしまうのです。

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 警察に関する部分にあえてこだわるのは、「惜しい」と思うからです。捜査の描写にもう少しリアリティがあれば、もっといい作品になったのに。

 さて、7番勝負の決着はどうなるのか。そこにからむ死体遺棄事件の結末は...。ラストから孤独で悲しい、一人の青年の姿が浮かび上がり、強く印象に残ります。

 

*(注)<容疑者=犯人>ではありません。あくまで犯人と強く疑われる人物。犯人と認定されるのは裁判で裁判長が有罪判決を言い渡したときからです。