見ているけど見えていない、聞こえているけれど、聴いていない。つまり、いつの間にか「ぼー」と放心しているとき、突然肩をたたかれたら、ぎくりと条件反射します。
普段は周囲に張り巡らせている五感のセンサーが麻痺していて、いきなり何かに自分が鷲掴みにされたような感じ。だれでも経験がある、些細な出来事です。だから変にムズカシク考えるのも野暮、....は承知なのですが。
肩をたたかれた瞬間に、裸の<私>が剥き出しになります。そして<私>以外の全ての存在は、外部の<異物>であるという、世界との根本の関係性が露わになるのです。
五感がフルに働いているときであれば、<私>の外にある全て、モノであれ人であれ、<異物>は常に私に緊張を強い、対処を求めてきます。そんな、重くて張り詰めた空気に、支配された小説が「掏摸(スリ)」(中村文則、中央公論社)です。いや、理屈っぽくて申し訳ない...^^;。
そもそも、中村さん以外のだれが、以下のような簡潔明快、しかも意味曖昧な書き出しで小説を始めるでしょうか。
まだ僕が小さかった頃、行為の途中、よく失敗をした。
冒頭に書かれた「行為」とは、盗みです。
ところが盗んだものは手の中で、異物としての存在を主張します。
本来ふれるべきでない接点が僕を拒否するように、異物は微かに震え、独立を主張し、気がつくと下へ落ちた。
これを普通に書くと、こうなります。
僕はドジな子どもだった。よく盗みをしたが、せっかく盗んだものを、すぐに手から落っことしてしまうのだ。
だからといって、中村さんが気取った書き方をしているとは思いません。主人公である一人称の<僕>に対して、世界を構成する無数の<異物>たちが異議を唱える、その関係性の提示。小説全体を支配する空気感について、冒頭から読者に伝えているのです。
指先が敏感すぎるがゆえにドジだった<僕>は、天才的な掏摸として大人になります。そこに現れるのが、とんでもない悪者。権力と富を持ち、悪を突き詰めて、悪と善の境目まで逆転させてしまいそうな、恐るべき<異物>なのです。
ちょっとしたミステリーとしても楽しめます。ただし、誰もが納得するようなオチは、用意されていません。不気味な世界に読者を連れ込んで、大円団に辿り着く前に、主人公の<僕>が死にそうになってしまえば、当然のことながら<僕>と一緒に小説世界を見ている読者も、その後を知ることはできません。
「掏摸」は大江健三郎賞を受賞、英訳されてウオール・ストリート・ジャーナルが選んだ2012年小説ベスト10。欧米など各国で翻訳されています。中村さんの小説は「掏摸」に限らず、海外での評価が高い。
基本的にヨーロッパ文化圏の哲学は、「私とは何か」という存在論を積み上げてきた歴史があるので、中村さんの小説はすんなり馴染むのかな。ミステリーで味付けされた、哲学小説。みたいな感じ。
蛇足ですが一度だけ、ある宴席で中村さんとご一緒したことがあります。隣がその世界の大御所だったせいか、とても謙虚で静か。失礼ながら、小説からは想像できないような爽やかさをまとったイケメンでもありました。