又吉直樹さんの芥川賞受賞作「火花」には、次も読んでみようかと思わせる何かがありました。そして手に取ったのが「劇場」(新潮社)です。
帯のキャッチには「切なくも胸に迫る恋愛小説」。なるほど、ストレートにそのままの作品です。主人公の<僕>は、アングラ劇団の脚本家。舞台という創造空間で革新的であろうとする傷だらけのアート小説、という側面を持っています。
<僕>に、テレビドラマのようなカッコよさは微塵もなく、繊細だからこそ膨れ上がる自意識に自ら傷つき、愛する女性<沙希>を傷だらけにします。常識的には、沙希に養ってもらっているヒモ。沙希は、ありえないくらい健気です
これも帯にある西加奈子さんの評を引用すれば「未熟な人間にだけ許された醜さ、美しさ。かいぶつみたいな作品だった」。
なるほど、西さんの評、前半部分には全面的にうなずきます。醜くて不完全であるほど、ときには切ない美しさを漂わせる、人というものの不思議な在り方がしっかり描かれています。
でも、それが「かいぶつみたいな作品だった」かといえば、う〜ん....。そう思わなかった。意地悪な言い方をするなら、こういう小説は太宰治を筆頭に、たくさん書かれてきた。ただ現代的な衣装をまとっただけ、とも感じました。
以前の稿で「火花」について、わたしは
「これは60年前に書かれた作品だ」と言われたら、わたしはさほど違和感なく信じてしまいそうです。
と書き、そこが魅力だと述べました。え、前に、現代において古くさいからこそいいなんて述べたのなら、今回は理屈に合わないではないか。うん、確かに。
基本的な作風は「劇場」でも変わらないのですが、主人公である<僕>の立脚点が違う。これは結構、わたし的には重要。売れないお笑い芸人、かたや無名の脚本家。
今回は引用多めですが、ノンフィクションライターの中村計さんが、お笑い芸人について書いた一節を紹介します。
芸人とは、ときにどうしようもなく悲しい存在である。真剣に取り組んでも真剣に見えない。いや、むしろ、そこで真剣に見えたら、芸人としては二流だと言っていい。
「火花」には、この芸人の悲しいパラドクスが根底にありました。だから主人公が愚直にもがけばもがくほど、一個人の出来事を超えた深みを獲得したのです。
「劇場」に、この作品構造はありません。主人公がいくらもがいても、もがくことがなんのパラドクスも孕まず、運と才能があれば成功に結びつくからです。そこにあるのは未熟な一個人のエリア内で、完結してしまう葛藤。読者として葛藤に共感することは可能でも、恋愛小説からはみ出すだけの力を感じませんでした。
今回は何だか少し、勝手に、小難しそうなことを書いているのかな。うー。
さて、「劇場」の次に発表された「人間」という長編がありますが、未読です。又吉さんの作風はわたしにとっては捨て難い空気感があって、なんというか、味噌に3週間漬け込んだ半熟卵みたいな味なのです。ん。もっと意味不明か?