ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

コラムの舞台裏 ぼた餅とお彼岸について

 昨日は春分の日でした。仕事の一つである週1本の新聞1面コラムで、何を題材にするか迷ったとき、物色するのは<時事ネタ>か<季節ネタ>です。新型コロナや政治などの社会状況は時事ネタ。春分の日は、季節ネタですね。

 昼が長くなって桜の開花が近づくころ、春分を中日にした前後3日がお彼岸です。仏壇をきれいにし、墓参りする家もありますが、わたしはそんな習慣と無縁に生きてきました。ただ子供のころは、母がぼた餅を作ってくれる日でした。

 「今回のテーマはお彼岸にしよう」と決め、やおら開くのは講談社版「カラー図説 日本大歳時記」です。昭和56年刊行の古い大型本で、説明が詳しく写真満載。季節ネタを書くときは必須の基礎資料になっています。古本全5冊を1,000円余りで買えたのは幸運でした。

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 一つのテーマを調べ始めると、派生していろいろな周辺知識が必要になり、ネット検索にも大いに世話になります。「便利な時代になったよなあー」と、実感するときです。昔は図書館に通うしかなかった。さらに昔なら、ムラの長老に聞いたのかな?。ただし、ネット上の情報は正確性に関して神経を尖らせています。

 さて、祖先に感謝して彼岸にぼた餅を作るようになったのは江戸時代から。あの世のご先祖さまは甘いものを好むと考えた。つぶした餅米をあんこでくるんだおなじみの味ですが、当時は贅沢品でした。

 秋の彼岸に食べるときはこれを「おはぎ」と呼びます。

 呼び分けるのは、季節の花に由来するとか。春はボタン、秋はハギ。ぼた餅の漢字表記は「牡丹餅」。ただし、どちらかの呼び名を通年で使う地域もあるようです。

 あんこを作る小豆は秋が収穫期なので、新鮮な食感を生かすため、粒あんでくるむのがおはぎ、翌春のぼた餅はこしあんを使うのが本来。思わず「へーえ、そうなんだ」と感心してしまい。

 日常のささいな食の風習にも歴史と知恵が詰まっていることに、今ごろになって新鮮さを感じます。つまり、わたしがいかに日々の暮らしに無頓着な歳月を積み上げてきたかを知るわけです。

 でも楽天的にとらえるなら、無知なままこの年齢になったから、ぼた餅一つに知的な味わいを噛み締めることができるのかも。若さを失うことはさみしいとしても、失った分だけ別の何かを得るのだとすれば、まあ、<じじい>になっていくのも悪くないか。

 

 ....コラムを書くとき、常に意識するのは<起承転結>の大原則です。この文章に例えるなら、ここまでは<起・承>の展開。短く、転と結へ。

 

 ぼた餅どころでなかったのは、10年前の春でした。東日本大震災の惨状は続き、福島第一原発の暴走にただ息を飲んでいました。当たり前の日常を奪われた痛みに誰もがぼう然として、ぼた餅のことなど思い浮かべもしなかった記憶があります。

 団塊の世代以降、つまりわたしを含めた大多数の人びとは戦争という国の危機を知りません。2011年とは、「この国はどうなってしまうのか」という根底の恐怖を初めて突きつけられた、稀有な春だったのではないでしょうか。

 今また、新型コロナの試練に遭っているから、日々を大切に過ごしたいと思いました。餅米と小豆に砂糖。お彼岸はぼた餅で、日本の当たり前をかみ締める。でも一方でダイエットも気にしながら...というのが、何ともわたしの平凡なところなのですが。

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 前回のコラムを下敷きにして、ちょっと息抜きに書き散らしました。ここまでのお付き合い感謝です!