ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

危ないですから黄色い線まで.... 〜「JR上野駅公園口」柳美里

 「JR上野駅公園口」(柳美里=ゆう・みり=、河出文庫)は、2020年に全米図書賞を受賞したことで、日本でも多くの人が手に取った1冊です。わたしもその一人で、柳美里さんの作品は初読でした。

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 いい作品が必ずしも売れると限らない以上、どんな経緯を経るにしても、多くの読者を獲得することは素晴らしい。それにしてもどこか複雑な気持ちを拭えないのは、日本人ではない英語圏の人がこの小説に注目し、翻訳し、アメリカで権威ある賞を受賞したということ。

 書かれているのは、極めて日本的な歴史現実と一人のホームレスの心象です。何より日本に暮らす人が向き合うべきテーマが小説空間に詰まっていて、それをアメリカに教えてもらったような残念さ。まあ、それはさておき、

 いい小説でした。

 上野公園で暮らす老いた一人のホームレス。彼は未来に背中を向けて日々生きているので、見ているのは過去と、刻々と過去に向かって流れる現在の光景だけです。

 家族を養うために東北から出稼ぎにきて、「飲む打つ買う」は一切せずに働き続けた一生。理不尽としか思えない息子や妻の死があります。ようやく月数万円の年金をもらえる年齢になり、彼はいったん故郷に落ち着いたのですが。孫に置き手紙を残して常磐線に乗り、再び上野駅に立ちます。

 上野公園のホームレスに東北出身者が多いのは、東北の人にとって東京の玄関口が上野駅だったから、という理由があるそうです。これは個人的にもよく分かって、現在は新幹線ができて東京駅に始発・終着が集約されていますが、わたしが学生のころも東北や北陸からの路線は上野駅まででした。

 視覚的な情景描写、台詞のような会話のすくい上げ方は、柳美里さんが劇作家でもあるからでしょう。小説として独特の空気感を作り上げています。

 ラスト、東日本大震災を暗示する短い描写は胸をえぐります。根こそぎ奪う。小説の中で積み上げられた人生であろうと、現実の人生であろうと。単純で圧倒的な事実だけがそこにあります。

 過去と未来の2度の東京五輪、天皇、原発立地が東北にもたらしたものなどが折り込まれ、問題意識を持って読めば、この小説はさまざまな解釈に耐えます。

 例えば文庫本の巻末解説のタイトルは、なんと「天皇制の<磁力>をあぶり出す」。

 う〜ん。わたしはその方向から突っ込むのはどうかと思いますが、要は幅のあるシビアなテーマ性を作品が持っている証でしょう。

 小説に分かりやすい「面白さ」「癒し」「涙」などを求めるなら、「JR上野駅公園口」は<外れ>かもしれません。でもねえ...つい安易な楽しさばかり求めるから、刊行時にこういう作品を読み逃してしまんうんだよ!と、反省しながら、どこか読後が爽快なのはどうしたことだろう。

 そして、小説の最後に置かれた山手線のアナウンスが、今も頭に響いています。

 「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」

 おそらく、この電車は急ブレーキをかけただろうけれど、間に合わない。