ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

われらに罪なすものを 〜「瑠璃の雫」伊岡 瞬

 辛い時、苦しい時に、明日からも人としてあることに、踏みとどまらせてくれるものとは何でしょうか。例えばそれが小説なら、どんなフィクションか。

 主人公に自分を投影し(ここでまず、読者を引き込む作家の力量が問われます)、次々と降りかかってくる不幸を一緒に苦しみ(男社会は、上司は、理不尽すぎる!とか^^;)、そして終わりに用意された逆転や救いに、喝釆したり安堵したりできるフィクション。

 これは小説だけでなく、大半の映画やTVドラマにも共通する、共感を呼ぶための骨格=黄金の方程式=です。シチュエーションはビジネスであったり、恋愛であったり、その他何かとの複合であったりと様々ですが。

 もともと文学や神話研究の世界には<地獄巡り>というキーがあって、救いは地獄の後にしか存在しないということ。まあ、地獄がなければ救いも必要ないわけですから、日々悩んで生きる人間という生き物の、なんとも因果な性分を表しています。

 そうなってくると、問題になるのは<救い>の質。心の表皮かせいぜい皮下脂肪までにはよく効いて、涙や興奮を誘ったりして売れるけれど、翌日には忘れる作品が割と多い。

 苦しい業界としては、売れそうな人材を発掘して人気作家に育てたいのは、まあ、仕方ないとも思いますが。

 「瑠璃の雫」(伊岡瞬、角川文庫)に書かれた救いを、言葉に表すなら<赦し>です。最後に勝つことではなく、現実を受け入れてゆるすこと。とても地味な救いのキーワードです。でも、これはしばしば心の表皮や皮下脂肪を突き抜けて染みてくる。

 そして赦すためには、どれほど救いがなかろうが、起きてしまったことの真実を知らなければなりません。

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 主人公の美緒は小学6年生。母と弟、3人の団地暮らしで、母はアルコール依存で入退院を繰り返す人間放棄状態。実は、一番下にもう一人の弟がいたのですが、赤ん坊の時に死んでいます。その死をめぐって両親は離婚したのです。

 美緒は弟を殺して自分も死のうと何度も考え...。重苦しい日々が語られます。

 そんな美緒があるきっかけで出会ったのは、元検事の孤独な老人。彼は若いころ、幼い一人娘を誘拐され、今も行方が分からないままだという過去を持っています。

 物語は過去の誘拐事件の真相の解明、美緒の成長という2本の縦軸で進みます。

 タイトルの「瑠璃の雫」の瑠璃は、誘拐されて行方不明のままの、元検事の一人娘の名前です。雫は涙。そしてこの涙は、むしろ瑠璃以外の多くの人の涙であり、最後には美緒の<赦し>の涙にもなります。

 物語の終盤、季節外れのクリスマスカードに書かれたメッセージが出てきます。

 

 われらに罪なすものを、われらがゆるすごとく

 われらの罪をもゆるしたまえ

       「新約聖書」マタイ伝六章十二節

 

 この小説を分類すれば「ミステリー小説」ということになるのでしょうけれど、ミステリーを侮ることなかれ。久しぶりに、わたしの心のぶ厚い皮下脂肪を、渋く貫いてきました。