ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

わたしの人生は誤りだったのか 〜「浮世の画家」カズオ・イシグロ

 敗戦によって根底から社会の価値観が覆った1948年ー50年の日本を舞台に、ある画家の心の揺らぎを、一人称の<わたし>の世界として描いたのが「浮世の画家」(カズオ・イシグロ、飛田茂雄=訳、ハヤカワepi文庫)です。

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 戦時中に至るまでの<わたし>は著名な画家であり、戦争に向けて国民を鼓舞する作品を発表していました。激動の時代に芸術家として生きる<わたし>の、信念に基づいた姿勢でした。

 しかし、敗戦によって日本には米国流の価値観と民主主義が持ち込まれ、<わたし>への世間の視線は一変します。画家としては引退同然になり、娘の縁談が進まないことを気に病み、自らの人生を振り返るのです。

 以上は小説の骨格ですが、作品としての魅力は<わたし>の意識の流れに任せた、骨格への<肉付け>にあります。全編が回想による語りで、意識はしばしば違うところへ流れ、また戻ってきます。

 そして<わたし>の主観にとって事実であることが、客観性を持っている保証はどこにもない前提で成り立っているのです。これが作品に独特の雰囲気を生み出し、語りのあちこちに、人間というものの心のひだが表れます。

 時系列に沿った明確なプロットがあって、ワクワクするストーリー展開を持つ現代日本の小説に慣れた読者は、もしかすると「浮世の画家」の面白さを掴み損ねるかもしれません。しかしこの特質こそが、カズオ・イシグロさんなのだと思います。

 

 わたしが読んだのは「新版」と銘打たれた文庫本で、旧版との違いは、2016年に書かれた作者の「序文」が最初に置かれていることです。(英国での初版刊行は1986年)

 本編に入る前に、この「序文」を読むことができたのは、とてもラッキーでした。カズオ・イシグロさんはここで、「浮世の画家」を書くまでの経緯を振り返っています。

 当時、カズオ・イシグロさんは小説とテレビドラマ台本の違いは何かと考え、大差はないという結論に達しました。

 .....気持ちが沈み始めました。テレビのスイッチを入れれば得られる体験と大差ないなら、それをわざわざ小説として読むことに意味があるだろうか。

 しかもこのころ病気にやられ、しばらく寝たきりに。ベッドで手にしたのがプルーストの「失われた時を求めて」の第1巻でした。

 当時もいまも、私はプルーストの大ファンというわけではなく、むしろ、その文章はときに天を仰ぐほど退屈だとに思っていますから。しかし、このときは「序文」と「コンブレー」に完全に心を奪われ、それを何度も何度も読み返しました。

 心奪われたのは、物語の展開の方法でした。時間の流れに従って直線的に進むのではなく「連想の脱線や記憶の気まぐれが推進力になって」話をつないでいくのです。これこそ、ドラマ台本ではない小説というものではないか。

 「浮世の画家」について、これ以上の解説はないでしょう。構想が作品に向けて動き出すきっかけを著者自身が語り、作品を読めばなるほどプルーストと血縁のような趣きを感じるのですから。この小説には、どこか文学の<先祖返り>的な肌触りがあります。

 ちなみに、20世紀のもっとも重要な文学作品として、ときに挙げられるのは、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」と、ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」です。

 どちらも大長編。特に「失われた時を求めて」は、現在の岩波文庫なら全14冊という大部ですから、読み通すのはなかなか骨が折れます。たまたまわたしは大学時代、サークルがフランス文学研究会だったため、半年かけてメンバーと読み込み、批評会を繰り返したことがあって、カズオ・イシグロさんの「序文」がとてもしっくり入ってきたのです。

 「むしろ、その文章はときに天を仰ぐほど退屈」というくだりなど、思わずにんまりでした。

 やや脱線しました。タイトルにある「浮世」とは何か。この言葉を一つのキーに、芸術と社会の現実、表現とは何かというテーマが掘り下げられます。誰もが納得する答えは、決して導き出すことはできないのが、このテーマであるという暗示も含めて。

 

<追記>

「浮世の画家」の原型になった短編について、Ranunさんがブログで紹介されています。とても興味深い内容でした。興味のある方はぜひお読みください。

ranunculuslove.hatenablog.com