ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

感度の高い言葉の共鳴函 〜「内部」エレーヌ・シクスス

 「ことばを食する」と題し、本や言葉をテーマにしたこのブログを始めたとき、いつか書きたいと思いながら、果たしていない作品がいくつかあります。「内部」(エレーヌ・シクスス、新潮社、絶版)が、そう。かつて20歳代前半のわたしに、精神的な暴力に近い衝撃を与えた小説です。

 シクススの「内部」、そしてベケットの戯曲「ゴトーを待ちながら」や「モロイ」をはじめとした小説は、わたしにとって刺激的であればあるほど、深刻で絶望したくなる作品群でした。

 高校のころからわたしは、純粋な読み手としての「読者」ではなく、自らも言葉に大切なことを託す「書き手」として、あらゆる本に接していました。特に意識したわけでなく、気づけばそれが自然な視点になっていました。生意気そのものですが、生意気でない若さなどつまらないと、今も思います。

 乱暴に言うなら、すでに出版された全ての本は踏み越えるべきライバルでした。あるいは自分の土台を固めるための基礎材。ところが、自分にはとうてい到達できそうにない作品に対面したとき、感嘆と絶望が同じ重さでのしかかってきます。

 それがシクススの「内部」であり、ベケットでした。

 

 太陽は、私たちの生が始まるときに沈んでいた。そして私たちの生が終わるときに昇る。私は東洋に生まれて、西洋で死んだ。世界は小さく、時は短い。...(中略)...生と死は言語の支配下にある、とのことだ。地獄の私の庭園で狂っているのは言葉である。私は火の玉座に座り、自分の言語に耳を傾けている。真理は太平洋の岸辺から地中海の入り口までひろがっていた。同じ水が三度私を浸し、私を三度溺れさせた。...(中略)...。私は言葉ゆえに笑う。 (若林真訳)

 

 「内部」の本編が始まる前に置かれたこの短い序章は、鋭いサービスエースのように一直線にわたしを射抜きました。呆然としてふり返り、転々と転がるテニスボールを眺めるようにして、それから序章に続く本編を読んだのです。

 本編は「私」の現在と過去、世界との関係が語られます。しかし何かおかしく、何かが決定的に欠落している。欠落しているのは客観。それは小説が、わたしの「内部」の私的言語で語られるから。一切の客観を顧みない、魂の夢幻のような終わりなき旅です。

 ところが同時に、夢幻のような内容を構成する言葉は、わたしという主観の熱とは程遠く、むしろ生物学者が冷徹に一つひとつ対象を観察するような記述。この冷たい矛盾と混沌こそが、生の真実ではないのか。当時のわたしは作品の磁場に囚われ、以降長くもがき続けました。

 20世紀を代表する作家として、しばしば言及されるのはマルセルプルーストとジェイムス・ジョイスですが(2人の代表作を読む苦行と言ったら!)、個人的にはシクススとベケット。プルーストさん、ジョイスさんの凄さも分かりますけど〜、わたしはへそ曲がりなのです。

 ....さて、「始めに言葉ありき」は、新約聖書「ヨハネの福音書」の冒頭です。「内部」のプロローグが、創世にかかわるキリスト教の教えを踏まえた語り(聖書否定あるいはパロディ)であることは、容易に推測できます。

 わたしにとってはしかし、聖書より「古事記」冒頭から前半のシュールさが連想されました。正確には、わたしが「古事記」を読んだのは、「内部」の後なので、「古事記」を読みながら、シクススの「内部」を思い浮かべたのです。

 改めて説明の必要もないでしょうけれど、8世紀のはじめ、代々歴史を語り継ぐ家に生まれた稗田阿礼が、天地創造と神々の物語を暗唱し、太安万侶が文字で書物にまとめたのが「古事記」です。

 シクススの「内部」は、全く異なる世界でありながら、わたしの中で「古事記」と通底してしまった。これが極私的な現象に過ぎないことは、否定しません。

 

 エレーヌ・シクススは1937年、アルジェリアに生まれたフランスの作家。 父は医師で母はドイツ系ユダヤ人。アルジェリアが故郷なのは、先輩作家のカミュと同じですね。パリ大学の英文学教授などを務め、膨大なジェイムス・ジョイス論を書きました。小説家としては、1969年に発表した「内部」でメディシス賞を受賞し、「極めて感度の高い言葉の共鳴函」と評されました。(この部分、本の裏表紙の紹介をベースにしました)