中華の北、深く長い山嶺に子午山(しごさん)があります。実在する山だと思いますが、ネットでざっと検索した程度では、確信が得られません。しかし「子午山」という言葉にヒットする情報はあふれています。
尾根をいくつか越えると川があり、川を渡った先の台地に庵があります。いま暮らしているのは、老いた二人の女性と、戦で孤児になった子どもたち、そして犬。かつて心に深い傷を負った多くの子どもたちがここで立ち直り、山を下りて行きました。
それが子午山。北方謙三さんが小説の中に創り上げた理想郷です。北方さん自身は、子午山を母の胎内に例えています。世の中から切り離され、人が生まれ変わり、生き直すための地である清々しくも厳しい土地です。ネットでヒットするのはこちらのほう。
北方さんの歴史大河小説・大水滸伝(集英社)は、「水滸伝」19巻、「楊令伝」15巻、「岳飛伝」17巻の全51巻という膨大な小説です。荒唐無稽な中国の古典「水滸伝」を踏まえながら、英雄たちの生と死が絡み合う闘う男と女の群像が、圧倒的なスケールの物語として、まさに大河のように流れます。
全巻を通し、子午山は物語を支える男たちの心の故郷として存在します。
短いセンテンスを積み重ね、ハードボイルドなタッチで描く小説なので、読者は男性が多いと思います。でも熱烈な女性読者も少なくはないようで、そんな推薦文に出会うと、思わず「ほう」と心中に声にならない声を発してしまいます。
さて、2月末から3週間かけて「岳飛伝」全巻を再読しました。「岳飛伝」は4回目の通読で、これで「大水滸伝」51巻を20年余りの間に4回読んだことになります。われながらあきれるやら、感心するやら。
何というか、わたしにとっては、疲れたときに帰りたくなる故郷のような小説なのです。大部ゆえ、読み始めたら徹夜しても4日や5日では終わらない。つまり、当分は娑婆に戻れない?のもいいのです。この作品自体が、わたしにとっての子午山のようなものなのかもしれません。
「侯真、死ぬなよ」
「生きていることを忘れるほど飲めば、死ねませんね」
「それでいい」
史進が笑った。
蝉の鳴き声が、不意に耳に入ってきた。
「岳飛伝」末尾は、生き残った老戦士二人が子午山で交わす他愛もない会話です。
英雄たちの生や死も、わたしのような凡夫の生と死も、等しく人間臭く、哀しいくらい他愛ない。そうなのだと知ることが、生まれて、死ぬまでに人が学ぶことの全てなのかも....。などと、わたしは昨夜、最後のページを閉じてからも飲み続け、酔った頭で思ったのでした。やれやれ。
大作なので気安くお勧めできません。もし気が向いたら図書館などで「岳飛伝」ではなく、やはり「水滸伝」第1巻(集英社文庫)を読んでみてください。2、30ページあたりから「面白い」と思い始めたら、膨大な世界にハマる危険性ありです。