ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

絵について 新しい寄り道

 4月に入ってから、自由に使える時間は本より絵の方に傾いています。現代日本の写実絵画について、このブログでも2回取り上げてきました。昨年、諏訪敦さんの絵画作品集「どうせ何もみえない」(求龍堂)について書き、今月に入って別冊太陽「写実絵画の新世紀」(平凡社)を取り上げました。

 こうした個人的な流れが、困ったことに、わたしの中に「描いてみたい」という気持ちを生み出したようなのです。あー、ホントに年寄りの冷や水だあ、と痛切に思いつつ、最近は読書より、鉛筆を持ってしこしこスケッチブックを黒くしていく作業に熱中しています。

 全く描いた経験がなかったわけではなく、高校時代は美大進学も<ちらり>とだけ考えました。しかし「花の東京で学ぶのはやっぱり文学だろう」と即座に否定。それでも20代後半まで、少しだけ描いていました。再び描くのは30数年ぶり。

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                 (鉛筆B、H、2Hとシャープペンシル0.2ミリ2B、HB使用)

 「くー」は、このブログ運営者のわたしの名前ですが、わが家の老犬ラブラドールの名前でもあります。15歳10カ月になったくーをデッサンしました。

 考えているのは、感性や芸術センスなどというあやふやなものをできるだけ排して、ただ忠実に対象に向き合うこと。『それを突き詰めたら写真とどう違うんだ?』と思ってしまいそうですが、カメラのレンズを通して感光部に記録される光景と、人の網膜に映し出される光景は<似て非なるものである>というのが、現代の写実絵画をいろいろ見てわたしが思ったことです。

 そんなのは当たり前じゃーと、また自分でもツッコミたくなりますが、その2つの違いについて、何がどう違うのか考えたことがなかったと気づいたのです。

 で、無謀にも自らそれを試して<砂つぶのようなかけら>でいいから違いを体験してみたくなった。年齢や才能の有無に関係なく、人に迷惑をかけなければ何をやろうと自由なはずだし。そもそもわたしが考える写実は、自分が透明になる技術は必要でも、才能はむしろ対象を歪める不純物(そう思い定めると気楽だ〜)。

 人の網膜に映るものを純粋に紙やキャンバスに再現できたら、結果的にそれは誰もが見ていて、誰も見たことがない作品になるのではないか。それこそ現代の写実絵画のダイナミズムだと、文学的妄想が脳内をクルクルと静かに疾走しますww。

 .....まあ、本来が頭でっかちの文学人間なので、笑ってお許しください^^;。

 準備運動のデッサンをあと1点紹介します。サービスで「美女」シリーズの中から選りすぐりの1点!。いや、女性はまだこれしか描いてないので、全然シリーズではないのですがw。

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 さて、目的である油彩に着手できるのは、いったいいつになるのだろう。これって、ただでさえ寄り道だらけの人生に、また一つ、寄り道を増やすということか?

               

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