ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

ふつうを書いて、味わいあり 〜「田舎の紳士服店のモデルの妻」宮下奈都

 数日前に手をつけたわが部屋の本の整理、まだ終わりそうにありません。とりあえず四方の壁面を複数エリアに区切り、1エリア限定で進めています。もし該当エリアの本を、全く別エリアに存在する(はずの)本と一緒にしたいと思っても、涙を飲んで無視。処分する本も渋々ですが、選別しています。

 今日も例によって、たまたまページをめくってしまい、わたしの作業を中断させる困った1冊が「田舎の紳士服店のモデルの妻」(宮下奈都、文春文庫)です。初読がいつだったか明確な記憶がなく、奥付を見ると<2016年4月10日 2刷>なので、4、5年前ですね。

 漠然とした読後感がイメージとしてあるだけで、中身の具体的な記憶が歳のせいか、毎夜のアルコールのせいか、脳細胞とともに死滅。こういう状況が一番ヤバくて、再びページをめくり始めてしまうのです。

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 なぜこの文庫本を買ったかは、覚えています。タイトルに惹かれたから。ふつう、作品タイトルは短く、一息で言い切れるのがベター。「鉄道員(ぽっぽや)」とか「罪と罰」、「仮面の告白」とか。ところがこの本は、『田舎』以下4つの名詞を、3つの『の』でつなげて、しかも全然華やぎがない。

 この、あまりにも芸がない(なさそうな)タイトルが、絶妙のキャッチコピーになり、しかも小説の魅力をしっかり伝えているのだと、読んでみて納得します。

 読み返し始めると、いろいろ記憶もよみがえり。かなり美人系の女性が、同じ会社の海外営業部のホープに一目惚れ。頑張ってモノにしたものの、2人の子育てに追いまくられ、夫になった男は15キロも太り、挙げ句の果てにうつ病になって退社。その夫の田舎(たぶん、福井市)に、東京から移っての10年が描かれます。派手さは微塵もない、ごく普通の日常をきめ細かくすくい上げて。

 田舎のマンションに引越し、挨拶にいった隣のおばちゃんは、つっけんどんとではないけれど、笑顔がありませんでした。

 初めて会ったときに笑顔を見せてくれなかった人とはだめだ、と梨々子は思う。

 (中略)

 でも、ほんとうはうっすら見えているのだ、目にしたくない答が。

 誰だって私に対しては笑顔で接してくれるべきだという、根拠のない自信。自分でもおかしい、厚かましい、と思う。どうして私に対しては笑顔で接してくれるべきかと言えば、私はがんばっているからであり、可愛がられる価値のある人間であり、大切にされるべきだからなのだ。およそ非常識でナルシシスティックな理由だった。

 ささやかな日常の<ドラマ>と、飾ることのない率直な内面がつづられます。男のわたしからすると、「へえ、女性の心の動きはこうなのか」と「うん、たいていの人間はそうだよな」が、同じくらいの比重で読み取れます。

 さて、主人公である梨々子、「田舎の紳士服店のモデルの妻」はそれから10年をどう過ごし、どう変わるのか。先を急がず、ゆっくり読めば、決して心が重くなることはありません。

 宮下さんと言えばまず、本屋大賞の「羊と鋼の森」なのかもしれませんが、読んだ時は、まだこのブログ始めていなかったんだよなあ。なので未収録。でも「田舎の紳士服店のモデルの妻」も、なかなかいいですよ。