ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

静かに読み浸る 修羅 〜「あちらにいる鬼」井上荒野

 本猿さんのブログ「書に耽る猿たち」に「しとしとと雨の降る午後に、雨音だけが響く中、静かに読み浸っていたいような作品」と紹介されているのを読み、無性に読みたくなった小説です。そして「あちらにいる鬼」(井上荒野、朝日新聞出版)は、まさにそんな1冊でした。

 本猿さんの落ち着いた文が魅力を伝え、実際に読めば、小説は書評が伝える通りの世界で迫ってきます。わたしが読み終えたのは、梅雨入りした翌日の昼下がりでしたが。

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 作家の故・井上光晴と瀬戸内寂聴さん(当時は瀬戸内晴美)の不倫が始まった1966年、光晴の娘は5歳でした。その娘が、著者の井上荒野さんです。

 小説は「みはる=寂聴」と「笙子=光晴の妻」の二つの視点で交互に進み、二人の女の内面が描かれ、二つの視点によって一人の男・篤郎(井上光晴)が浮かび上がります。「愛とは何か」「女とは何か」「男とは」など、普遍的で青臭い問いかけに、この小説は淡々と答えてくれます。

 ただそれぞれの<在り方>があるだけなのだ、と。

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 単純化すれば不倫による三角関係なのですが、なにせこの男、二人以外にも方々で女を口説き、嘘をついて寝るのですから始末におえない。でも世の中にはきっと、逆のパターンもあるでしょう。奔放な女性と、振り回されても去ることができない男たち、みたいな。

 わたしたちの日常は一夫一妻制という道徳観の上に成り立っています。それは正義の旗印でもあるわけですが、そもそも「道徳」というものは漂白され、清潔に殺菌された心のようなもので、必ずしも人間という底知れない生き物の本質ではありません。

 これは小説なので、事実の細部の整合性を問うことに意味はありません。当事者の娘である作者が、両親と父の愛人を通し、男と女の(人間の)どんな深みを掴んで表現したかに尽きます。別の視点で、例えば妻の笙子がこれを書けば、違う物語にもなったでしょう。男と女のつながりは、それぞれの<在り方>があるだけなのですから。

 話はそれますが、最近の不倫報道、政治へのコメントにふれると、世の中には清潔に殺菌された心(道徳、社会正義)が過剰にテレビのワイドジョーやネットでまかり通っていて、肌寒い思いがします。人というものの<上澄み>部分を否定はしないけれど、それだけでは浅いのだと、存在感を示す文学や芸術の力がいまは弱い。

 底知れない闇にのたうつ人だけに見える光というものがたぶんあって、そんな<光>なら、わたしも信じられる気がします。この作品は、光のありかを探し続けています。

 さて、大人の愛欲や不倫を書く作家として、わたしがすぐに思い浮かぶのはある時期以降の村山由佳さんです。一途な思いや不安、嫉妬、心のうごめき。そんな時の人間は客観を離れて、歪んだ世界に生きています。村山さんはその「歪み」を描いて秀逸です。

 ところが「あちらにいる鬼」は、歪みを排した淡々とした筆致で、二人の女の普通ではない生き方を描き続けます。まさにしとしとと雨の降る午後に、雨音だけが響く中、静かに読み浸っていたいような作品なのです。

 そして読後に気になるのがタイトル。あちらにいる「鬼」とは...。人であり、恋敵であり、自分でもある「鬼」なのか。鬼とは、恐ろしいものである前に、哀しいものなのだと思いました。