ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

極限状態、冷徹な人間観察 〜「野火」大岡昇平

 ウクライナ、パレスチナのガザ地区など、世界のあちこちで戦争が絶えません。有史以来、国と国は武器を執って争い、21世紀になっても変わることがない。

 幸い、日本はしばらく戦争に直面していないけれど、「戦後」という言葉が過去になったわけではありません。改めて言うまでもありませんが、この場合の戦争は第二次世界大戦であり、日本にとっては主に太平洋戦争。東京など主要都市への焼夷弾、沖縄戦、さらに広島と長崎への核爆弾投下で、人びとが焼き殺され、粉々に吹き飛ばされました。

 一方で青壮年の男たちは召集され、補充兵として戦地に投入されました。軍人でない彼ら民間人に即席の軍事教育を施し、最前線へ。しかも食料補給さえできない戦地に放り出したのです。生き延びた人たちにとっても、生き延びたことが必ずしも幸せではなかった。

 「野火」(大岡昇平、新潮文庫)は昭和27(1952)年に刊行された、戦争文学を代表する小説。招集され、フィリピン戦線に送り込まれた一人の民間人が主人公です。

 <田村一等兵=私>という一人称で、小説は語られます。そのとき戦況は、派手な戦闘などもはや起きようがない。圧倒的な米軍の侵攻を散り散りになって逃れ、なすすべなく南国の密林を彷徨い、病んで飢え、次々と死んでいく兵士たち。

 兵士たちはなにを見、なにを考え、どう行動するのか。冷徹な外科医か解剖医のような手捌きで、作者は過酷な現実を描き出します。

 <私>は自分の血を吸ったヒルまで食べて命をつなぐ。目の前で衰弱死した男は、死んだら自分の肉を食ってもいいーと言い遺します。しかし、ついに<私>は屍体を口にできません。

 一方で、彷徨う森林の自然描写が緻密で鮮やか。常に死に直面しているとき、目に映る自然とはきっとそんな映像なのでしょう。打ち捨てられた教会で、心の揺れに射し込む宗教の、力と無力。そして作品の最後、地獄を生き抜いた<私>の自我の姿が、戦後の精神病院の一室に淡々と描かれます。

 戦争文学に違いありませんが、むしろ「戦争」というカテゴリーを外して、人間の本質に迫った一級品だと思いました。

   

 さて、以下は蛇足です。

 若き大岡昇平は文学青年で、詩人の中原中也、評論家の小林秀雄らと交流がありました。中也は無名のまま、何冊かの詩集を残して昭和12年に逝きました。普通の人付き合いができなかった中也は、大岡とも喧嘩が絶えなかったようです。

 大岡が召集され、戦場で歩哨に立ったとき、熱帯の夕日を見ながら、なぜか亡き友人の詩が口をついて出てきました。

 戦後、大岡は少しづつ中也の評伝を書き継ぐ一方、中原中也全集の編者を務めました。そして中也は、多くの人が知る詩人になりました。

 汚れちまった悲しみに

 は、もっとも知られた詩句でしょう。

 評伝「中原中也」(大岡昇平、角川文庫=おそらく絶版)で大岡が書いているように、戦後になって中原中也という詩人が脚光を浴びたのは、第一に詩の力によるものです。しかし、戦場で詩句を口ずさみ、生き抜いた大岡の努力も見逃せません。