ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

日本人の心の歴史 〜「詩の日本語」大岡信

 「日本語の世界11 詩の日本語」(大岡信、中央公論社・昭和55年)は、奈良時代の万葉集から明治の正岡子規まで、詩に使われた日本語を通して、日本人の美意識の変遷を浮き彫りにする試みです。

 さすがに速読は無理で、2週間ほどかけて読了に漕ぎ着けました。考察の過程が刺激的、かつ知的な面白さに満ちていて、ときに難渋しながらも次の章が楽しみになってしまいました。

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 古代からの日本の詩の言葉ですから、短歌、あるいは歌人たちが残した歌論の分析が中心で、本来ならわたし的にはあまり縁がないというか、むしろ敬遠したい対象です。ところがボードレールの詩・原文と、上田敏その他の訳文検討から入る(これが第一章)テーマの差し出し方に、まんまと引き込まれてしまいました。

 さすが谷川俊太郎さんと並んで、戦後の抒情詩を代表する詩人でもある大岡さん。谷川さんが純粋な詩人なら、大岡さんは詩人にして知の巨人ですね。

 繰り返しになりますが、これは詩あるいは短歌の<論>ではなく、詩という言語の構造体を通して描かれた、日本人の心の<歴史書>です。内容を簡潔に要約するのは、わたしにはあまりにも困難。いや、無理。なので、ごくごく一部の「読み」だけを記します。

 例えば「え、日本の中世ってそうだったの?」

 貴族社会全盛時に編纂された「古今集」と、貴族社会の終焉から中世の初めにかかる「新古今集」を比較して、二つの歌集の間にある精神の断絶が、次のように指摘されます。

 「新古今集」が示す新しい時代・中世と、中世を生きる精神とは。「自己と他者の対立相克を意識するだけでなく、自己自身の内部の分裂を鋭く嗅ぎつけ、その分裂を(中略)不安を持って凝視」し、しかも「自己そのものを他者としてリアルに相対化し、そこから世界を見つめ直していく」というのが「中世的な精神が発見した新しい立場」だというのです。

 なんだか小難しいのですが、ここに至るまで様々な短歌や歌論の読み込みと解釈が積み上げられていて、両書を比較してこう書かれると、納得。しかし、ここで指摘された「中世的な精神」って、極めて近現代的な心のありようではないの?。

 自己そのものを他者としてリアルに相対化、なんて、まんまサルトルの「対自存在」を出発点にした哲学みたい。サルトルは膨大な哲学書と小説を書いたけれど、日本人は57577の短歌、たった31文字。日本人すごい!(....というのはまあ、ちょっとしたわたしの妄想の逸脱ですがw)。

 いやいやこれに加え、中世以降の日本人の心には仏教の「無常感」という通奏低音が流れています。その辺りも漏れはなく、大岡さんは章を改めて詳しく言及。

 ところで短歌は、京都の貴族社会という極めて限定的な世界の言語の営みです。庶民の俗謡、歌謡といえば「梁塵秘抄」「閑吟集」その他。ご心配なく。ちゃんとそこも章を立ててフォローされています。

 こういう本を読むと、わたしは無性に残念で虚しくなります。「古今集」「新古今集」をはじめとした、取り上げてある多くの古典作品を全て読みたくなるのです。加えて歴史そのものも学び直したくなります。しかし現実にはそんな時間も気力も(何より頭脳が)自分に残された月日にはないでしょうから。

 シリーズ「日本語の世界」はこのほか、「小説の日本語」「日本語の成立」など全16巻。全部ではないにしろ、読みたいテーマが何冊かあったので、ヤフオクでまとめて落札しました。16冊・月報付きでたった3,200円!。古本は庶民の味方だなあ。