うだる猛暑日から一転、今日は天気がぐずつきました。本の文字が読み辛くなり、ふと気づけば明かりが必要なたそがれどき。「あれ、もう...」と思ったのは、曇り空に加え、お盆が近づいて日没時間が早まっているからでしょう。
雨上がりに一斉に鳴き始めたセミの声が、鳴り響いて全開の窓から流れ込んでいました。命をふり絞るような合唱に、つい今まで全く気づいていなかったおかしさ。芭蕉ではありませんが、滲み入るほどのセミの声は、むしろ静寂なのでしょうか。
薄暗い部屋で耳だけをすまし、何を考えるともなく、暮れなずむ外に目をやっていたとき、感じたのです。
不思議な昏い広がり。あの世とこの世がつながるのは、こんな時間帯なのかもしれないと。
お盆は、もともと仏事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」。初日の夕方に迎え火を焚いてあの世から故人の魂を迎え、ともに過ごしたのちに、送り火で見送ります。小説で記憶に残るのは、浅田次郎さんの「うらぼんえ」(短編集「鉄道員 ぽっぽや」に所収)かな。
まだお盆には少しばかり早いのですが、夏、死者をこの世に迎える風習があることに、日本人としてのDNAがざわめき、うるさいほどのセミの静かさに浸って、深く納得したのでした。
もっとも今年の日本、お盆の帰省について自粛を要請するとかしないとか、国、都道府県、市町村それぞれが小説家も唖然とするほどの言葉を使い分け、わたしとしては戸惑うやらあきれるやら。
しかし魂の行き来に、新型コロナも帰省自粛も影響はありません。1年ぶりに帰ってきたじいさんばあさん、親父やおふくろは、今の世の様を見たら何と言うだろう。たぶん「この暑さに、何でみんなマスクをしとるんじゃ?」から始まって。
現世の衆愚の一人であるわたしなど、ついお盆の枝葉である<休み>の方に気を取られがちですが、たまには幹や根っこの方に心を向ける得難い機会なのかもしれません。