それが俳句であるか川柳であるか、はたまた戯言に過ぎないかは別として、指折りながら1度や2度くらいは五七五と、頭をひねった経験のある人は多いと思います。
「俳句、はじめてみませんか」(黒田杏子=ももこ=、立風書房、1997年)という絶版本を、わざわざ古本で買って読んだのは、「このさい自分もいっちょう俳句など詠んでみようか!」
.....と思ったからではなく、実は俳句の読み方を知りたいと考えたのです。
そもそも文学作品に「読み方」などあるかどうかは別として、俳句が作品として成立する基本的なルール、作法くらいは実作に即して知っていた方がいい。そのためには「鑑賞入門」ではなく「作り方入門」がベター、というのがわたしの方針です^^;。
結論から言えば、楽しめました。知的な刺激もいろいろあって。
全体は5章構成。第1章はハウツー本の定石に従い「俳句の基本」。そのいちばん最初に、俳句の魅力とは何かが解説されています。
芭蕉、蕪村、一茶の句を挙げ、五・七・五の音字の読み、心の中での音読の切り方、つなぎ方を教えられます。
俳句を作るとき、読むとき、この五・七・五の呼吸を楽しむのです。
まずは呼吸法。頭でっかちに季語がどうだとか、意味や解釈がどうではなく。たとえ実際に声に出さなくても、言葉の響きのリズムを楽しむという詩の出発点がしっかり押さえてあります。
なるほどねー。わたしのような輩でも、つい七五調で言葉を並べるのは、これがあるからです。
「古事記」や「日本書紀」では、神話の英雄たちがけっこう歌(詩)を詠んでいます。現代語訳を参照しても、共感を持って読むには距離を感じるのですが、「万葉集」になるとぐっと親近感が増します。五・七・五・七・七の形式がくっきりし、長歌などもあります。歌われている感情は、ときに隣人のことみたいだし。
俳句はこうした歴史を踏まえて生まれたわけですが、「五・七・五の呼吸を楽しむ」という原点はみんな同じなのか。当たり前だろ!...と言われれば、至極当たり前なんですけれど、私の中では俳句というものの輪郭を改めて描き直したような気がして...。
あ、こんな調子で書いていると、だらだら終われなくなるw。以下、駆け足。
第2章は「添削による実作教室」
<現句> 建ち並ぶ団地に優し椿咲く
<添削例> 紅椿揺れて団地の立ち並ぶ
ふむふむ。さすが!
<現句> 職安に行きし夫(つま)にと春いちご
<添削例> 職安に行きたる夫(つま)に春いちご
うーん。これ微妙〜。
いや、あえて書けば、この小さな違いの、大きさ。なんだけど。
<私>という主体を押し出すか、それともほんの少し引いて<春いちご>あるいは<夫>を鮮明にするか。微妙な語感の響かせ方で、作品が別物になってしまうプロの添削。
でもこれを突き詰められるのは、17文字だから。あるいは詩だから。散文だと無理だなあ...。全部にこれだけの神経を尖らせようとすると、書いている方が潰れてしまうw
第4章の「名句を読む」は、さまざまな名句と、黒田さんの解説です。俳句や短歌が、作者と、読む人の感性による共鳴の場として、新たな空間を生み出すものだと感じる章です。
大岡信さんの「折々の歌」、安東次男さん「近世の秀句」など、<作品とその読み>で構成された本はたくさんあって、これも短詩形式ならではの世界。魅力的な特質の一つだと思います。
最後の5章は「知っておきたい俳句のあゆみ」
芭蕉、蕪村、一茶から子規、さらに戦後まで、俳句の潮流を作家と代表句で教えてもらえます。
さて第4章と5章で、メーンストリームと同じほど光を当ててあるのは女性の俳人たちです。そして、さりげなく次のように書いてあります。
尼僧と遊女が近世上流俳人のほとんどであることは興味深いことです。
江戸時代という封建社会、女性が感性を自由に発露するには二つの道しかなかったのかもしれません。家を離れて出家するか、遊女として成り上がるか。
明治以降の女性俳人では、私もかつて読んで心に残っていた句が紹介してありました。
竹下しづの女(1887〜1951)
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてっちまおうか)
この句の自解で作者(竹下)は「神様が女に児を愛する本能を下さらなかった方が女のためには或いは幸福かも知れません」と書いています。封建時代ではあり得なかった句だろうなあ。
この本を読んだからといって、以降、自分の俳句の読みに顕著な違いが現れるとは思えないけれど、まあ「読む」という行いに関しての即効薬などないのは当然でしょう。そして「季語」の大切さと意味の深さなど、いろいろ学ぶことができました。