男と女とは、いったいなになのか。
「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」(長谷川泰子・村上護編、角川ソフィア文庫)を読み終えて、今更ながらそんな陳腐な問いかけが思い浮かびました。
もとより、人と人の結びつきは一つとして同じでない以上、この問いかけに対しては無数の答えがあり、一つだけの正解はありません。この本の場合は、長谷川泰子にとって中原中也とは、小林秀雄とはなにだったのか。ひっくり返せば、二人にとって長谷川泰子とはどんな女だったのか。
長谷川泰子は1904(明治37)年、広島市生まれ。7歳のとき父が死去し、親戚に引き取られて母と別居。広島女学校を卒業後、女優になる夢を叶えるため家出し、教会で知り合った男に付いて上京しました。ところが関東大震災に遭い、京都へ転居。
このとき京都には、山口の中学を落第して立命館中学に転校していた中原中也がいました。二人が同棲を始めたとき、泰子20歳、中也は17歳でした。
翌年、二人は上京します。東京でできた中也の文学仲間の中に、小林秀雄がいました。小林は友、中也の同棲相手である泰子に惚れ、口説きました。やがて泰子は中也と別れ、小林のもとへ。
このとき中也は、荷物をまとめて小林の借家に移る泰子を手伝い、荷物を届けると小林の家に上がってお茶まで飲んでいるのです。どんな重い空気が流れていたか容易に想像できます。離別の傷は、中也が死ぬまで癒やされることはありませんでした。
ところが小林と一緒になると、泰子は極度の潔癖症に陥ります。現代医学の用語を使うなら、日常生活に重度の支障をきたす不安神経症とでも言うのでしょうか。泰子は外出もままならず、身の回りのことまで小林に頼りきり、また当たり散らします。
3年後の1928(昭和3)年5月の夜、泰子は「出ていけ」と叫び、小林は体一つで奈良に向かい、二度と帰りませんでした。うろたえたのは、待っても待っても小林が帰ってこない泰子でした。
日本の近代文学史上、有名な三角関係です。
男と女の出来事を外野が詮索するほど野暮なことはありませんが、なにしろ相手が中原中也と小林秀雄ですから、長谷川泰子という女性に興味がわくのは抑えられません。二人の文学者は、一体どこに惹かれたのか。
泰子が70歳を目前にして長時間インタビューに応じ、内容をまとめたのがこの本です。単行本になったのは1974(昭和49)年でした。
生い立ちから家出、三角関係、その後の自らの結婚、出産や中也の死。語られた出来事について、要所要所に中也の日記、書簡などからの抜粋も付され、双方の視点から眺めることができます。

インタビューした編者の村上護さんは、解説に「長谷川さんは底抜けに無邪気で純真な人だった」と書いています。中也と小林が惚れたのは、そんな彼女の人となりにだったのでしょうか。
加えて、泰子はときに詩を書いています(一部、本書にも収録)。作品としての完成度は低くても、詩句の言葉遣いに斬新さが垣間見え、それもまた若い二人の文学青年には魅力だったかもしれません。
泰子に去られた中也は死ぬまで泰子を思い、小林に去られた泰子は長く小林への未練を持ち続けたようです。当たり前ですが、男女関係の傷は、真剣であるほど深く、去った方ではなく去られた方に尾をひく。
1993(平成5)年、湯河原の老人ホームで泰子死去。88歳でした。
泰子より先に中原中也は1937(昭和12)年、小林秀雄は1983(昭和58)年に他界しています。


