ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

祈りのポリフォニー(多声音楽) 〜「優駿」宮本輝

 一頭の馬の、誕生。まだ肌寒い北海道の小さな牧場。大自然の中で零細な牧場を営む一家が、大きな借金をして夢を託し、種を付けた牝馬(ひんば・お母さん馬)から、漆黒の体の仔馬が産まれます。顔に星の形をした白い毛の刻印を持って。

 「優駿」(宮本輝、新潮文庫)はそうして始まり、この馬を軸に、関係する様々な人間模様が描き分けられます。牧場主と息子、会社経営者、その娘、騎手、新聞記者崩れ....。人はみな、たくさんの悔悟が詰まった過去の物語を持って今を生き、生き続けるために、未来に夢を持ってしまいます。

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 作品の中で、一人ひとりのそんな物語が重なり合い、しかし独立して流れて行きます。故意か偶然か判然としないまま人が死に、会社の存続をかけた闘いがあり、若い純愛が描かれるのです。

 長編小説の魅力は、三人称、複数の視点で展開するそれぞれの世界が、全体として一つの旋律を形作るところにあります。「ぼく」「わたし」で展開する一人称の小説は、ピアノやバイオリンの独奏曲。複数視点の長編は、各パートがそれぞれに自己を主張して鳴らす協奏曲か交響曲だと思います。声楽に例えるならポリフォニー(多声音楽)。

 そうなってくると、各パートがどんなふうに鳴り、響き合っているか。作曲家(作家)次第というわけですが、わたしは「優駿」のページをめくりながら今回も(再読)、最後は感嘆しました。う〜ん、すごい。そして面白い!。

 魅力的な、アクの強い、あるいは素朴な人物たちが夢を託す小説の主人公は、言葉を持たない一頭のサラブレッドなのです。

 付けられた名前は「オラシオン」。スペイン語で『祈り』となれば、「宮本さん、完璧過ぎますよ〜」と、おかしな八つ当たりをしたくなります。

 さてオラシオンは、クライマックスのダービーで勝てるのか。そこまでのレースで圧倒的な強さを見せますが、実は致命的なリスクをオラシオンは密かに抱えているのです。クライマックスは、未読の方のために秘密にしておきます。

 「優駿」が書かれたのは、宮本さんが確か37歳のとき。若いエネルギーと円熟が見事に融合した作品として、わたしの心に刻印されています。ちなみに、競馬のことなんて知らない方でも(わたしもそうです)、この小説を読むのに全く支障ありません。